母:敦子物語 Vol.26

自分が子供時代には得られなかった温かい家族、明るい家庭を自分で作っていると実感していた一方で、両親との距離はどんどん離れていっていた。一時期は、週末に家族で両親の家を訪ね夕食を共にしたり、父が友や妹の子供を連れて遊園地へ連れていってくれたりした。両親、自分の家族、妹家族、弟家族などが集まって全員で和やかに過ごす時間はなんとも嬉しい時間であったのだが、それは短い期間で終焉を迎えてしまった。それは、父のビジネスが大成功しそうだという時に始まった。今まで通り両親の家を訪ねると、母や弟夫婦から歓迎されないような言葉をかけられるようになった。両親と弟夫婦は、常に行動をともにしていたので、あまり近づかない方がいいのかな?と不思議に思ったが、自分が両親の家に行くことで、何か嫌な思いをさせるのであれば、行くのはやめようと思い、その時から足が遠のいた。

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それでも、顔を出さないことで、父に「なんで来ないんだ?」と呼ばれれば、会いに駆けつけたりするのだが、やはり母は喜んでくれる様子がなかった。思えばビジネスで成功しそうな父と近づけたくなかったのかもしれない。父も深酒をするようなことも続き、ビジネスでストレスがあるのか?ビジネスが成功すると寂しさが募るのか?とも思ったが、母の様子を思うと、やはり父に頻繁に会いに行くことは避けたかった。そんな日々が続いていたある日、悪夢を見た。濁流に流されていく両親や弟夫婦などを見ながら、自分は川岸の雑草にしがみついていた。流されてしまう両親を見ながら、手を伸ばしても助けられないもどかしさと、自分も濁流に飲まれそうな所を必死に雑草にしがみついている恐怖にうなされて目が覚めた。

そこから数日後、父が亡くなったと電話が来た。破天荒であったが、自分のことは思ってくれていると感じる瞬間が何度もあった父である。寂しそうに自分を見ていた目が忘れられない父である。苦労もかけられたが、自分にも性格が似ているのも父である。その父が突然亡くなってしまい、大きな喪失感に襲われた。ビジネスが成功しそうだというところからの突然の死。父の死を受け入れるまで時間が必要だったが、悪夢の意味も反芻しながら、父の一生を振り返り、父の優しい面、自分が思われていた面を大切に生きていこうと決意した。

ただ、父の葬儀という深刻な場面でも、まだ保育園に通っていた下の子は「明日は保育園お休み?」と親戚一同の前で、大きな声で聞いてくるので「そうだよ、お休みだよ」と返答すると「わーん、おじーちゃーん!」と泣き始めた。お休み確認で安心してから泣くという子供の素直さに、思わず笑ってしまったのであった。

看護師社長物語 ~番外編 その6~

講義や講演などで自己紹介をする際「子供の頃からマイクを持って人前で歌ったり、話したりしていました」と様々な写真をお見せすることがあったが、今回新たに、小学校の運動会であろう場面の写真を発見!なんの役割で、何を話したのかは覚えていないが、満足げに振り返る私。

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話しやすい位置にマイクコードを引っ張る私。

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右側に生徒たちが並んでいるので、何かアナウンスしている模様ではあるのだけれど、机の上に台本らしきものが見当たらない。自分の思いつきで話しているのだとしたら、これは誰に許可されたのか?もわからないけれど、この後ろ姿を見るだけで、今とあまり変わらない自分を見ることができる。なんだか大好きな一枚。

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凄く緊張して震えることも未だにあるとはいえ、不思議なほど、マイクを持って話すことが自然に思えるのは、やはり多くの経験がこうさせていたのだと思う。

母:敦子物語 Vol.25

更に子育てに協力してくれる友人が近所に居て、友の面倒を見てくれていた。雨が降れば傘を持って保育園まで迎えに行ったり、時には休日に遊びに連れていってくれたりもしてくれた。子供も友人には甘えていいと思っていたのか、「おばちゃん」と呼び親戚のような付き合い方で懐いていた。その友人が結婚したいという男性と出会ってからも、デートに子供を連れていったりして、子供に対してどんな対応をするのか?などということもわかった上で、結婚することが決めたいようだった。ある日のデートでは、男性の車から子供が降りる時に、車の扉に友が指を挟んでしまい、指が腫れ上がったことなどもあったが、そんな時も男性は指を冷やすための水を用意したりして、誠実に対応してくれていたらしい。

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結婚が決まってからも、友人はそれまで同様に、子供と遊んだり家に呼んだりしてくれていた。ある時、友が「耳掃除をして」と言ってきたのでいつも通り耳かきで掃除をしようとしたら「おばちゃんはやわらかい綿棒でしてくれた。あれは痛くない」と友人宅でも居心地よく大切にしてもらっているんだなーということが伝わってきた。また子供は誕生日プレゼントも友人に細かく注文したりと、かなりこだわも強い子供だったにも関わらず、常に満足させてくれる友人には感謝であった。

しばらくすると、友人にも男の子の子供が生まれ、その男の子が物心つくようになる頃まで付き合いは続いた。

母:敦子物語 Vol.24

直と友は年が10歳離れていたということもあって、直は妹の面倒をよくみていた。妹のお弁当を作ったり、一緒に遊んだりしてくれたので、とても助かった。友も姉のことを「おねえちゃま」と呼んで慕っていた。また、夫も良く面倒をみていたので、夜中に友がトイレに行きたいから連れて行ってと言うのは、決まって夫の方だった。普段話しを聞いたり遊びに連れていってもらうのは母親、甘えたり助けてもらうのは父親と分かっていたかのようである。

ただ、教育や成長に全面的な責任を持つのは自分であると考えていたので、一貫性を持って育てるには、自分のこともかなり変えていかなければならなかった。子供でも一人の人間として育てるというのは、根気良く話しを聞く必要がある。元々、自分の性格は人の話を良く聞くタイプではなかったのだが「決めたことだから」と友が話す保育園での出来事でもジッと話しを聞く。最後まで話しをさせる。決して話しの腰を折ららない。すると、子供はどんどん話しをする子供になっていく。疲れていようが、眠かろうがおかまいなしだ。

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また、子供の性格なのか?好きな歌などが出来るとその歌ばかりを聞くようになるので、車で出かけている時など「およげ!たいやきくん」を飽き飽きするほど繰り返し聞かされたりもした。以前の自分なら耐えきれないが、子供が夢中になっていることを遮ることはしないと決めていたので、一緒に聞き続けた。自分が両親からされてきたこととは、真逆の育て方をすることは、大変でもあったが、これが正しいと思える瞬間でもあった。

子供の要望を何でも聞くというわけではないが、行動が伴ったり、理由がきちんとあれば、一定の許可も与えていくようにしていた。その中でも、食べたいものはなんでも食べて良いが、必ず完食するという約束もしていた。すると、食べきれる量を本人が考えるようになったり、あれもこれもとダダをこねたりもしない。ジッとお菓子の前で考えて、一つ手に取り「今日はこれにしてみる」と言う姿もおもしろかった。一方で小さい頃から「なぜそれをするのか?したいのか?」を考えさせたことで屁理屈も非常にうまい子供に友はなっていった。

母:敦子物語 Vol.23

子供の性格とは、こうも違うものかというほど、直と友の性格は違いがあった。育て方の要素もあるが、持って生まれた性格もあるということを実感していた。直の考えそうなこと、行動はおおよそ判断出来ていたし、心の優しい親思いの子で、何かあっても常に自分に向きあって助けようとしたり、助けて欲しいことがあれば、ストレートにそれを求めるような部分があった。一方で友は我が道タイプで、自立出来るようにと育てもしたが、それ以上に自分の思ったように進んでいくという雰囲気があった。

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それを象徴する出来事は、子供が3-5歳の時に、海に行った際、子供を浅瀬で抱いて海に投げ落としてみるということをした時のことだった。直は水に顔がついた瞬間に驚き泣いて手足をバタつかせたので、水を飲む前に抱き上げた。友は同様のことをすると、泣きもせず、水中で立ち上がり、目を開けて、砂浜に向かって歩き始めたのである。これには驚いて抱き上げたものの、同じことをしても反応が違う二人の娘であるが故に、育て方にもより注意していかなくてはと思ったのであった。

身体は小さいのに、一人の人間として扱っていくということの難しさと、個性を生かしながらも自立させていくことを、より強く意識したのであった。

看護師社長物語 ~番外編 その5~

「母 敦子物語」の番外編とも言える今回。子供の側から言わせてもらうとバージョン。

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「思い出重視」「物より思い出」は少し大人になってから理解出来たが、幼少期は、いきなり学校を休まされたりするのは驚きと困るなあという感覚である。しかも、混雑した頃の海より、人より先に海を体験!と毎年、海開き前に海に行くというのは無謀なのだ。なぜなら、海開きの頃は水温も人体にとって問題ないとか、適しているということも考慮されているはず。よって「さー海開き前に海に行くぞー!」なんてランドセルをしょった後に言われるのは、子供としては「えー困るー」なのだ。でも母にそんなことを言ったら寂しい気持ちにさせてしまうことぐらいわかりきっている。子供は子供なりに気を使う。よって、その提案に素直にのるわけである。

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毎年、砂浜に埋めてもらったりするのも悪くはないのだが、まだ水温の低い冷たい海で泳いだりするのは案外苦痛なのだ。でも、母のためにも海で楽しむ子供でいなければ!母は泳ぎもしない、そもそも水着も持ってきていないのに海に連れてきてくれているんだから!という軽いプレッシャーの中で、寒くても海に入る。

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浜辺に座って、サングラスをかけながら「楽しんでいる風の子供」を見ている母の姿を眺めながら、今回も満足してくれたかな?と思う子供心なのであった。

母:敦子物語 Vol.22

子供達の学校や保育園を休ませて出かけるのは、海だけではなく、映画や舞台、家族旅行なども含まれていた。通常、子供は学校を休めるというのは嬉しいのかと思ったりするが、自分の子供達は真面目だったのか「さあ今日は出かけよう!」と朝に行ったりすると「えー学校に行くはずだったのに!」と文句口調で言われることもしばしばあった。店のこともあり、家族揃う日というのが貴重だったが、とても良い思い出を沢山作ってあげることが出来たのではと思っている。

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ある日、弟が結婚式を挙げるということで、参列前に着物の着付けを手伝ったり、準備から参加していた。下の子も大喜びで、いとこと会ってはしゃいでいた。いよいよ支度も終わり、結婚式に参列したのだが、下の子がおとそで出た酒に口をつけた。その途端「あーこれは、う○こだ!う○こだ!」と何度も言い始め、神聖な三三九度の儀式中に笑いがおきてしまい、とても恥ずかしい思いをしたし、弟夫婦にも悪いことをしたなと思った。とは言え、自分方の妹も既に結婚していたし、弟も結婚したということもあって、親族で集まることも増えて、子供の頃の家族の暗い思い出とはうらはらに、にぎやかに親族と過ごす日々がこの辺りからしばらく続くことになった。

親族が増えていく喜びと、この当時はもう両親とも大人としての付き合いが出来はじめていたので、程よい距離感で自分方の親族とも付き合うことが出来ていた。

母:敦子物語 Vol.21

無事に店をオープンする資金も整い、お茶漬けの店「須磨」と名付けた。夫の実家が神戸で須磨というのは近所の海岸の名前だったのだが、とても雰囲気がよく、好きな場所であったので、その地名から店名をつけた。店がオープンすると、たちまち近所の会社員が立ち寄る場所になっていった。

子供を作ろう!と思ってから、酒もタバコもやめていたが、この頃には復活していた。お店のお客さん達は若い人達が多かったこともあり、母親代わりのような感じで、平日の日中でも仲間のようにして出かけるようになっていた。海に行く時は休日だと混むので、平日に行く。下の子(友)は保育園を休ませ、上の子(直)は中学校を休ませて一緒に連れて行った。

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思い出作りは一生の財産になると思っていたので、様々な体験をさせたかった。再婚してから極めて苦しいという生活ではなかったが、何でも物を買い与えるということが出来るほどでもなかった。それでも思い出作りには時間もお金もかけたいという思いで自分は泳がない海に連れていったのも、その一環であった。子供達が楽しそうにしている姿をぼんやり眺めることで満足だった。

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夫は平日は仕事だったが、いつも快く自分や子供達が遊びに行くことを許してくれていたし、真面目に仕事をしてくれていたので、常に安心して遊びに出かけられたのであった。

母:敦子物語 Vol.20

次女のことは直(なお)赤ん坊は友(とも)と呼んでいた。直は初めて出来た妹をとても大切にしてくれて、面倒もよく見てくれた。姉と言っても10歳なのに、産まれる前に約束していた「ちゃんと面倒をみる」という約束をしっかり守っていた。ただ、夫にとっても初めての子供だったので、お互いに手をかけすぎるようなこともあった。ある時、直が友の側にいる時に泣き始めたら、夫が飛んできて「お前が泣かせたな!」など理不尽に怒ったりしている。直も自分が泣かせたりしないと言うのだが、これは困ったことだなと二人を見ながら思った。かと言って、面倒を見るなとも言えず、ハラハラしながらも二人の子育てを見守っていた。

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すると、あっという間に友が泣く前のフガフガ言いはじめるだけで「オムツか?ミルクか?」など分かるようになってきて、殆ど泣かせることなく、ちょっと表情を変えるくらいで事前にオムツを替えたりミルクを飲ませるようになっていた。友は満足したようにそれらが終わるとスヤスヤ眠ったので、全員が泣かせないように注意していたように思う。

その当時は自分で屋台のおでん屋さんを営んでおり、昼間はずっと面倒を見ていられるし、夜は昼の仕事の夫が面倒を見ていられたので、常に両親と離れることなく友を育てることが出来ていた。ただ、歩き始めたり、物心がつきはじめると、夜になると出かけようとする自分に、泣きながら追いかけてくるようになってしまった。そんな日々を経て、屋台ではなく住居と店が一体になっていれば、四六時中子供と一緒に居られると考え、夫に相談した。すると、夫も賛成してくれたのだが、店をオープンするには資金が足りなかった。夫は考えた末、夜中に高速をとばして、夫の実家である神戸まで両親に資金を借りるため帰ってくれたのであった。

母:敦子物語 Vol.19

こうして、再び娘が二人になった。長女を病気で失い、離婚してからずっと次女を一人で育ててきたが、十分に手をかけてあげられなかったことで次女には寂しい思いをさせてしまった。今は再婚もし、優しい夫もいる、同じような子育てをしたら意味がない。そこで、長男を産めなかったことをいつまでも悔いていてもしかたがないので気持ちを切り替え、新しい子供は十二分に話を聞き、最初から一人の人間として自立した人間に育てようと決意した。

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ただ、自分は両親から愛情をかけて育ててもらったという記憶もなかったので、意地もあり絶対にあんな育て方はしたくなかった。だとしたら親を反面教師として、正反対に育てるということが、ある意味、子育ての方法だと思った。両親は子供の話を聞いたり、一人の人間として対応したりはしてくれなかった。故に、生まれたばかりの子供には、赤ん坊の頃から、沢山話しかけ、歌を聴かせ、本を読むなど手をかけた。ただ、自分だけではなく、夫もかなり過保護だったこともあり、冬に生まれた子が、風邪をひいたりしないように!と部屋にストーブをつけ、毛布でくるんで、洋服もしっかり着せて靴下まで履かせて寝かせていた。

ある時に気付くと、赤ん坊の身体中に赤い斑点ができている。慌てて病院に連れていくと「汗疹です」と言われ、何をしたらこの寒い冬にあせもなんて出来るんですか?と医者に言われた。家の状況を説明すると「子供なんて体温も高いんだから、それはやり過ぎですよ!」と注意され、薄着にして寝かせているとみるみるうちに赤い斑点の汗疹は消えていったのだった。

最初の子供でもないのに、自分も夫も娘も全員で手をかけていたせいもあり、かなり過保護な子育てが開始になったのであった。