母:敦子物語 Vol.36

義父が亡くなってからも、夫方の兄弟姉妹とは年に1-2回は集まったり旅行に行ったりと交流が続いていた。義母が元気で一人暮らしをしていたため、義母を中心に集まることが出来ていた。子供達も同じような年齢だったので、家族同士で集まる時は、大変賑やかだった。夫は若い頃、バンドを組んで歌っていたこともあったので、歌が好きで、家ではハチトラの器械でカラオケをするなど、いち早くカラオケを生活に取り入れていた。ある時は、関西方面で既にカラオケが流行り始めているので、東京でもカラオケの店を開始してはどうか?という夫の提案に、安定した生活を望んでいた自分は反対した。「東京の人は歌なんて人前で恥ずかしくて歌わない!」と言ったのだが、その後に空前のカラオケブームが巻き起こったので、これまた後悔の一つとなっている。

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ともあれ、家でのカラオケに対しても、最初は夫や子供が歌うだけなら良いのだが、自分が歌うということには抵抗があった。それでも、夫のすすめもあって、家族それぞれが歌えるように自分の好きな曲なども含めハチトラのカラオケを購入し、家でカラオケを行っていた。そのうち、歌っている時にカセットテープに録音しよう!ということになり、家族それぞれの歌っている歌や、一緒にうたったりした曲を録音して家族オリジナルテープを作成した。夫方の親戚に会う時に、そのテープを持っていくと、大好評!「これはいい!欲しい!」ということになり、いくつかテープを作成し、親戚に配ったりした。そのうちに他の親戚もカラオケ機を購入したりして、親戚一同がカラオケファミリーのようになり、お正月でも集まるとみんなでカラオケ大会を行うくらいにまでなったのであった。

思えば、夫と結婚する時、自分の家族に夫を紹介した宴席で、夫が有難や節を家族の前で歌った時「人前で歌が堂々と歌える人を夫に出来たんだな」と嬉しくなったことは忘れられない思い出の一つであった。その当時から、歌をうたったりする明るい家庭が夫とは築いていけると思っていたのかもしれない。

母:敦子物語 Vol.35

高校 3年生になった直は、少しずつ親離れをしていっている様子だった。それまでずっと自分の側を離れなかったのだが、これも成長の一歩とはいえ、少し寂しい気持ちでもあった。スーパーのレジや喫茶店でバイトをして、帰宅も徐々に遅くなっていった。ある休日、直が図書館に勉強をしに行くと言ってでかけた。その時は、気付かなかったが、どうも家の中の様子に違和感を感じて、直のタンスを開けてみてビックリ!洋服がほとんどなくなっている。

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慌てて、行くと言っていた図書館に行ってみたが、そこに直の姿はない。これがまさかの家出だったと知った時はショックだった。ただ、バイト先や友達のことは把握していたので、直ぐに発見することになるのだが、なんでわざわざ家出なんてするのか。。。と悲しかった。これも幼い頃からずっと自分をサポートしてくれて、中学生まで反抗期も全くなく、明るく優しく育ってきた子供のすることなんだなと思うと、子供の成長や気持ちの変化を掴むのは難しいと感じたのであった。

小学校低学年の友は、そんな時も冷静にじっとことの成り行きをみていた。

母:敦子物語 Vol.34

ある日、直が発疹が出来た!と真っ赤になった身体を痒がっていた。理由を聞くとウインナーを生で一袋食べてしまったとのこと。なんで生で食べたの?と聞くと「美味しかったから」と高校生になっても、幼い面があるなあと思いながらも、まだまだ子供の部分に安心もしていた。そんな直がある時、スター誕生のオーディションに行きたい!と言ってきた。どうせ無理だろうと思ったので「行ってきていいよ」と許可を出した。その当時はピンクレディも、山口百恵もスター誕生からデビューしていたので、有名な番組ではあるが、狭き門だということもわかっていたので、うちの子が受かるわけないという気持ちだった。

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ところが、オーディションで、歌のうまさが評価されたのではなく、面白いキャラクターが評価され、欽ちゃんの目に止まった。そこでお笑いタレントを目指すということで欽ちゃんの事務所にスカウトされたというのだ。この結果にはあまりにも驚いたが、直は歌手じゃなくても良いので、芸能界を目指して事務所に入りたいという。かなり熱心に自分を説得したいようだった。ただ、行動も見た目もまだまだ子供で、芸能界などは危ない世界だという気持ちもあったため、騙されたりしたら大変だという気持ちが先行し、事務所入りを反対した。直はその意見に従い、芸能界入りのチャンスを諦めたのだった。

後から思えば、これは本人にとって大きなチャンスだったかもしれないし、本人がやりたいということをやらせてあげれば良かったのかもしれないとも思ったが、どうしてもその決断には踏み切れなかった。いつまでも子供で、大切に思う気持ちが故なのだが。

母:敦子物語 Vol.33

とても素直で心優しく中学時代は反抗期も無かった直も、いよいよ高校生になり、バイトをしたいと言い始めたり、友達と遊びに出かけることが増えてきた。こういう時期に一歩間違うと非行に走る可能性もあると思い、この時期は直の行動に注意をはらうようにしていた。

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ある日、駅前で、高校からの帰宅途中と思われる直が同じ年くらいの男の子と一緒にバスに乗ろうとしている所を発見した!所が行き先が、家に帰る方向とは違うバスだった。その時は、自分の友達と友も一緒にいたのだが、三人で「直の後をついていこう!」ということになり、直の乗った満員のバスに一緒に乗り込んだ。どこで降りるのかと降車する人たちを確認したのだが、中々降りない。どんどん乗客がバスから降りていってしまい、最終的には我々だけになってしまった。そこで直に「あー!」と気付かれて「なんでお母さんがいるのー?」と驚かれた。逆方向のバスに乗る所を発見したので、つけていたと正直に言うと、直は大笑いしていた。一緒にいた男の子もよく見ると、とても素直そうな子で、問題になりそうでもなかったので、追跡はそこまでにして三人は帰宅することとした。

また、直が高校2年くらいになると、今度は友達とディスコに行きたい!ということを言い始めた。夜中の新宿に友達同士でなどは行かせられない。ただ、家でも友達を呼んで音楽をかけながら踊っている姿を見ていると、直が一番うまい。常にラジカセでディスコミュージックを聞いて踊るようになっていたが、本当に踊るのが好き!という感じに思えた。そこで、踊りたい娘を、自分が危険だと思うからと踊りに行かせないのも娘に我慢させることかもしれないなと思い、ディスコに行きたいなら私が連れて行こう!ということになった。直の友達も含めて自分が保護者として連れて行くことにした。毎週のように土曜日の夜はディスコでイキイキと踊る娘をぼんやり眺めながら、本当に踊ることが好きなんだなあと思いながら、これも自分がしてもらえなかったことの一つを娘にしてあげられているのだと感じていたのであった。

母:敦子物語 Vol.32

娘二人にはドラムを習わせていた。最初は直が知り合いから習い始めたのだが、一緒についていった友も保育園児ながら習いたいというので、では一緒にということとなった。夫は直にスケートを教えたり、スポーツに音楽にと本人たちが好きになるようなことであれば、色々と経験させたかった。直はドラムもスケートも素質があったのか、直ぐに上達していった。直が町内の夏祭りでやぐらの上で太鼓をたたく姿などを見ることもできた。

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友は自転車の後ろに乗りながら陽気に聞いたことも無い曲を口ずさんでいるので「保育園で習った曲?」と聞くと「違う!ソウルドラキュラ」とドラム教室で現在習っているという曲を口ずさんでいたようだった。それにしても保育園児がソウルドラキュラとは何とも愉快である。

友はそれ以外にも、小学生になってから算数で困らないようにと、そろばんを習わせたので、足し算や引き算も小学生前から出来るようになっていた。直は非常に字が綺麗だったので、習字は習わせなかったが、友には習わせていた。色々な習い事をさせた傍、映画や演劇にも連れて行き、親が直接教えられないようなことも、映画などから学んで欲しいと思った。それ故に、子供映画だけではなく、青春映画、ハリウッド映画などどんなジャンルでも一緒に連れていったのであった。

母:敦子物語 Vol.31

子供には、様々な行事を意識して教える必要があると思っていた。七五三を祝うというのもその一つであった。女の子だったので、三歳と七歳の七五三は着物を着せた。本人も普段は活発だが、着物を着ている時はいつもより大人しくなり、着物を着ているという意識が子供の行動も変えるのだと感じたりした。季節の食べ物や季節行事も同様で、菖蒲湯に入る、おはぎの時期だ、柚子湯の日だなどと常に季節感との関連を子供に教えた。

こうした行事も、自分の子供時代にはしてもらえなかったことの一つでもあるからこそ、自分は子供に対してきちんと教えてあげたかった。直と友は10歳の歳の差があったので、洋服などお下がりを着せるということが出来なかったため、行事がある度に一から購入する必要があった。

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季節の行事の中には、各種イベントなども含まれていた。春になると潮干狩りに行ったり、5月は浅草の三社祭など一年中なんらかの行事があるため、いつしか子供のほうがその行事の時期を覚えて「そろそろアサリご飯の季節だね」など言ってくるようになる。思い出を増やしながら、こうして季節の行事を増やしていけている結果をもみることができていた。

ただ、時には経済的にきつい時もあるのだが、子供にはそれは伝わらない。そろそろ毛ガニの時期だ!とか、今年も初物のスイカを5月には食べよう!など、細かい指定もされるようになると思わず苦笑いしたくなるような時もあった。それでも、季節の食べ物、行事を極力欠かすことなく毎年実行したおかげで、子供は自然とそうした知識を身につけられたように思う。

母:敦子物語 Vol.30

義父が亡くなり、お通夜から葬儀までそのまま神戸に残って参列することになった。義母も夫の妹達も悲しみの中で儀式を進めることはとても困難であると感じた。それゆえに嫁である自分が少しでも冷静に対応する必要があると意識して行動するようにした。お通夜も公民館で行ったが、参列者が多く、義父の人柄や生前の親交の広さを改めて知る機会にもなった。参列者が思った以上に多かったこともあり、準備していた飲み物などだけでは足りず追加で用意することなどにも追われた。義母の着物の着付けを行ったり、常に動き回っていた。また深夜になっても、交代でお線香を切らさないようにと、起きていたが、親戚や子供達含め多くの人たちがその場に残っていたため、朝食の準備も夜中の間に行わなくてはと思い、大きな炊飯器もないため、米を何度も炊いておにぎりを沢山作るなどして準備した。

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今の時代であれば、コンビニで人数分の食事を揃えるということも容易であるが、その当時は、そうした場所もなかったので、全て手作りで準備するしかなかったのであった。朝になり、それぞれ起きてきた人から朝食を食べてもらい、片付けてはまた次の人たちというように、全員に食べさせてホッとしたと思ったら、お葬式の時間になったため、自分は取るものもとらず式に参加した。自分も義父の死をみんなと一緒に悲しみたい気持ちもあったが、やはり実子と嫁では立場も違うことをわきまえ、最期まで裏方に徹したのであった。

全てが終わった時には、無事に葬儀が終了してホッとしたような気持ちと、ようやく悲しみに浸ることが出来る安堵感から力が抜けてしまった。親戚達は夜も寝ずに対応してくれてありがとうと感謝の言葉をかけてくれたが、夫が「こいつは大丈夫だよ」と思いやりに欠ける返答をしていた。まあ親戚の前で良いカッコをしたいのだろうとも思い、グッと我慢したのであった。

母:敦子物語 Vol.29

夫の両親や親戚は神戸に住んでいたので、家族全員で神戸に行く時と、夫が友だけを連れて神戸に行く時とがあった。夫と神戸に出かけることを友は喜んでいたので、安心して見送ることが出来た。友は神戸から帰ってくると関西弁で「お姉ちゃん、テレビ見えへんわ〜」などと言うので普段は関西弁を使わないのに、数日で関西弁に馴染む子供の吸収力の高さには驚いた。

ある時、義父から電話をもらい、また神戸においでーと優しい言葉をかけてもらっていた時に、義父が喉に何かできてしまって、水を飲んでも引っかかるんやーと言ってきた。そこで、まさか?と思ったが「それは急いで大きい病院で検査してもらったほうがいいです」と義父に伝えた。すると、病院に行った義父から咽頭癌だったという結果を聞き、すぐに夫を神戸に行くようにすすめた。

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状況を確認したり、病院で受けた診断に間違いがないのか、再度病院に行ったりして最終的に、診断に間違いがないことがわかった。義父は口数は少ないものの、結婚する時から、常に味方になって優しくしてくれたのでショックだった。そこからは毎月、義父に会うため夫は神戸に帰省するようにしてもらった。寝たきりにはなっていなかったが、徐々に横になっている時間が長くなっていった。

その状態が続いたある日、神戸の親戚から電話が夜の10時過ぎにきた。まだ義父は皆んなと話も出来ているというが、なんだか様子がおかしい気がして、胸騒ぎがおさまらなかった。そこで電話口で「おじいさんの足の爪押して、爪の色をみてくれる?」と夫の妹に依頼すると「紫色になってる」とのことであった。

これは急ごう!と夫に告げて、家族全員でそのまま横浜の家を出発し、車で神戸まで急行した。寝ずに運転して、朝8時には神戸に到着したのだが、義父は笑顔で「あーよく来たなあ」と迎えてくれた。子供達の顔も見せたら、喜んでくれたので、少しホッとして近所の喫茶店でモーニングを食べてまた義父の家に戻った。子供達は親戚の家に行くようにし、夫や夫の妹達と一緒に義父のそばでその日は過ごすことにした。すると夫に支えられながらトイレも自力で行ったり、話にも参加したりしていた義父が、夕方に突然意識をなくし家族に見守られながら、安らかに息を引き取ったのであった。

母:敦子物語 Vol.28

友に関しては、保育園に行くのも、本人が行きたいというので行かせたのだが、流石に自分で行きたいと言っただけあって、行くのを嫌がるようなことはなかった。また、保育園のお迎えにお店のお客さんとみんなで車に乗って音楽をかけながら迎えに行ったりと派手なことをすると友は「迷惑だから音を小さくして」と大人びていた。また、お迎えの時間に少し遅れてしまったりしても、泣いたりすることもなく、大人しく待っていてくれた。子供も必ずくるという安心感があったようだ。子供が安心して自分を待つということは嬉しかった。自分が子供の頃は、両親に対してこんな安心感は全く持てていなかったからだ。

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子供は、小さくても、どんどん意見も言うようになるし、曲げないことは一切受け付けない性格に育っていった。ある日、店のお客さんが「友はなんのパンが好きなんだ?」と聞いてくれて友が「チーズロール!」と答えると、東北出身のお客さんだったので訛りがあり「ツンズロールだな」と聞き返す。すると「チーズロール!」とまた子供が回答しなおす。お客さんは「あーツンズロールだろ」というと「違う!チーズロール!」と答える。その繰り返しを10回くらいしているのを笑って見ていたのだが、最後のほうは訛りを理解出来ない子供が「ちーーーがーーーうーーーー!」と曲げずに血管を浮きだたせて話していた。

また、友は食へのこだわりが強かったので、大人でも辛くて食べられないようなカレーライスを店で注文して朝から汗をかきながら辛口カレーを連日食べる姿を見ながら、変な子だなと思ったりもした。どちらかマイペースで融通がきかない友と、中学生になっても親にべったりで反抗期もなく親を助ける優しい直。日々、子育てをしながら子供の成長とともに出現する出来事を楽しんでいた。

母:敦子物語 Vol.27

自分の子供時代を振り返っても、運動会に両親が一緒に参加してくれたり、お昼に両親と一緒にお弁当を食べたりという思いではない。そして、直にも生活にゆとりがなく、そうしたことはしてあげられなかった。そこで友には、色々な面で今までしてもらえなかったこと、また出来なかったことを実践することにしていた。

運動会で、子供と一緒にお遊戯に参加したりするというのも、不思議な体験であった。お遊戯などしたこともなかったし、他のお母さん方と参加するのも気恥ずかしいものがあった。夫は子供と一緒にプログラムにあったおさるの籠屋に参加して、途中まで一番で走っていたので張り切りすぎたのか、最終場面で転んでしまい怪我をして慌てたり、お昼は家族揃ってお弁当を食べたり、子供が徒競走で走る姿をカメラにおさめたりと大忙しの1日を過ごすことが出来た。

普通の家族がしていることが出来る喜びと、自分がこんなことをしている?という妙な感覚が混在していたが、これも子供がいるからこそ出来る体験だと感じていた。

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直も自分がしてもらえなかったことを、友はしてもらえていると拗ねてもおかしくない場面がいくつもあったのだが、むしろ一緒に子育てに参加するもう一人の母親のように、妹を大切に育てていた。そんな周囲のサポートもあったお陰で、元々は暗い性格であった自分も、子供をきちんと育てるという目標に向かって、前向に考えたり、参加したこともないことに挑戦したのだった。

そんな大切に育てられた友であるのだが、ある朝、登園した際、玄関で靴を脱いだ瞬間に、横に居た男の子がサッと友の靴を取って、下駄箱に入れてくれた。親としては「ありがとう」と微笑ましい気持ちになったのだが、友は「ぎゃーーー」と泣き叫び始めた。普段は人前で泣いたりしないのに、自分の思った順番を崩されたと思ったのか?男の子の優しさなど理解出来ない歳であったのであろう、優しさに対しおかまいなしに泣き叫んでいる。男の子は困ってオロオロしていた。「ごめんね、ありがとうね」と男の子に声をかけても、友は泣き止まない。。。

こんな場面でも、穏やかで優しい直との性格の違いを感じつつ、自我の強い子供を育てるとは容易ではないなと思ったのであった。