母:敦子物語 Vol.44

夫がタクシーの仕事をしながらも、何処でも眠れるという体質ではなかったので、睡眠不足でかなり辛そうだった。腰痛にもなってしまったり、このまま同じ仕事を続けるのは体力的に難しいと感じていた。そんなこともあり、新聞の求人欄や折り込みチラシなどは常にチェックして、夫に合う仕事があれば転職して欲しいと思っていた。

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そんなある日、病院の庶務の求人を新聞で発見した。夫に話してみると自分には無理だと言うのだが、トライしてみないとわからないよと、まずは履歴書を送るだけでもと強引にすすめた。すると書類選考から面接試験まで通過することが出来た。面接試験は数も沢山いて、同様の仕事の経験者もいたようで、本人は自信なさげなことを言っていたが、コミュニケーション能力が高いのできっと大丈夫だと信じていた。結果、最終選考も通過することが出来、採用が決まった。家から車で20分程度で通える場所でもあったし、規則正しい仕事になれたということにホッとした。

新しい職場は、大きな組織だっただけあって、福利厚生もしっかりしていたので、契約施設も沢山あり、温泉施設なども利用することが出来、お正月には義母や親戚と一緒に宿泊しにいったり出来た。大きな組織の有難さを夫の転職を通じて知ることになっていったのであった。

母:敦子物語 Vol.43

姪っ子や、甥っ子、友人の子供など含めて、子供からよく懐かれた。よく話を聞いたり、楽しませることは自分の子供にもしていたことだが、それ以外にもたまに泊まりに来る子などには、好きな食べ物を作ったり、子供扱いせず大切におもてなしをするということをした。ただ、何もかも受け入れるわけではなく、自分の家庭におけるルールは伝えたり、間違えたら注意したりもするのだが、それでも子供は喜んだ。

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ある時、友人の子供が遊びに来たので、スーパーでその子と一緒に、好きだという食材を買ったり、家に戻ってきてからも子供扱いせず、話をしたりしていると、普段ない楽しさだったのか、とっても喜んだ。そんな時に、その友人が子供の事が心配になったのか電話をかけてきた。子供に変わって欲しいというので、変わると「大丈夫?寂しくない?」などを聞いているようだったが、その子が「楽しい!敦子さんの子供になりたい!」と言ってしまった。もちろん、本心から思っているわけではないだろうし、親にその時の楽しさを伝えたかっただけだったのだろうが、友人は大きくショックを受けてしまったらしく、電話を切ってしまった。

子供には親が一番なのは当然なのに、ほんの1日遊びに来た子供が言った言葉で、それほど怒らなくてもと思ったが、帰宅する予定の日になってから友人が「もう敦子さんの子供になれば」などと言うので、その子は泣いてしまったのであった。こういうことは親戚の子供にもあったので、親戚だから、友人の子だからということで可愛がっているのに、子供が懐くと、その親があからさまに面白くないという態度を自分にではなく、子供に出す。親としての自信があれば、そんな言葉で子供を傷つけなくても良いのに。。。とも思ったが、そういうことが続いてからは、極力、子供を可愛がる時には注意するようになったのであった。

看護師社長物語 ~番外編 その8~

物心ついたころから、服を選ぶのも自分の要望を取り入れてもらったが、かなり小さい時もこういう服を着ていたのかと写真を見て思う。まるで昔の新人演歌歌手のような出で立ちであるが、ズボンが好きだったのは、男の子が欲しかった親の趣味でそうなったのか?元々の気質でズボン好きだったのかは定かではない。ともかく、小さい頃から「ケの日ハレの日」とは何か?ということを意識するようにと母から教えてもらった。

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ハレの日に、普段通りの服装で行事に参加をしない。行事の意味や、参加する行事への敬意を払うことなどもこの中に含まれていた。中学生、高校生になれば制服が正装となるが、制服がない時はどうするのか?ということも思えば教えてもらっておいて良かったと思う。その流れもあってか、常に考えて行動をしなさいとしつけられた。何故この服を着るのか?何故これを食べるのか?それを考えた上で行動すれば、作法も吸収しやすいということだったのかもしれない。

学校で教えてもらう勉強とは違い、親というのは社会に出てからも人様に笑われない人間に必要な知識を、小さいうちからつけていくという地道な作業が必要なようだ。

母:敦子物語 Vol.42

直が家を出て一人暮らしをはじめてからは、夫も自分も働いていたため、友はいわゆる鍵っ子になった。特に寂しいということもなかったし、自分の職場も家から歩いて数分のところにあったので、いつでも会いにこれるし、会えるという安心感もあったからかもしれない。ただ、これも後からわかったのだが、かなり友達の家庭にお世話になっていたらしい。それを家で言ってくれればお礼も出来たのに、言わないのでながらく気付かなかった。おやつも家には買っておいたし、学校から帰ってきてもお腹をすかしたりしないようにと配慮していたつもりだったが、友達の家でおやつをいただいたりしていたということがわかって驚いた。

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共働きなので学童に入るという選択もあったし、それも友に聞いてみたりしたのだが、本人は入らないというので、習い事も色々あるし大丈夫かなという気持ちだったのだが、子供の考えや行動は実際にはわからないものだと感じた。家族は皆んなで協力して家を運営していくということを友にも教えていたので、この頃からは、家の手伝いも色々としてくれるようになった。掃除機がけや風呂掃除など出来る範囲の手伝いも増えていったが、こういうことも要領よくこなしてくれていたので、仕事をしていた自分にとっては大変助かった。

母:敦子物語 Vol.41

義父が亡くなってからは、義母に会うため年に 1~2回は神戸を訪れていたが、時には神奈川に呼ぶこともあった。ある年はお正月に来てくれたので、皇居の一般参賀に連れて行くと、初めての大変にとても喜んでくれた。義母は明るく活動的だったので、のんびり家で過ごすというよりも、あちこちアクティブに動き回ることもいとわなかった。時には友の欲しがったルービックキューブのデパート販売に早朝から並び、購入の手伝いをしてくれたこともあった。

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夫も義母のことをとても大切にしていたので、親孝行をさせてあげられることが嬉しかった。ただ、そんな時も自分と母の関係を思うと、少し複雑な気持ちにもなったりした。父が他界してからも、母は病院での勤務を続けていたのだが、休みの日だからといって、何泊も泊がけで遊びに来るということもほぼなかったし、会いに行っても数時間で帰されてしまうことばかりだったので、夫と義母の関係のように、一緒に出かけたり、長時間話をするということはなかった。時には母から電話が来て「週末行くからね」と言われ、嬉しくなり母の好きな料理を沢山作って待っていた所「やっぱりやめた」と言われたりすることも 一度や二度ではなかった。思えば母は自分に甘えていたのかもしれないが、それでも親なのにどうして。。。としっくりいかない関係に悲しい思いをすることもしばしばあった。

自分には埋められない親子関係があったので、余計に夫には親孝行をしてもらいたい!という気持ちが強くなっていたのかもしれない。

看護師社長物語 ~番外編 その7~

母のことをブログで書くにあたって、改めて過去の写真を見返してみると、これが案外、自分のことを見直す機会にもなっている。よく、人生の時間はあっという間だとか、気持ちは若いままだとか、やり残したことがあると先輩方に伺うことがある。それが今回は少しかもしれないが理解出来ると思うようになった。性格や、気質のようなものは案外、子供の頃から、変わっていないものだし、その当時に考えていたこととが写真から鮮明に思い出されても、今に確実につながっているのである。

視界を邪魔されずに例え一人であっても、一緒に来た人たちと隣り合わせでアトラクションに乗るわけでもなく、一人先頭で真ん中に座るあたりも自分らしい。満足気な笑顔である。

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先頭を走っているようではあるが、一番手前の自分は相当なカメラ目線である。集中しているようで、常に他のことに注意を向ける性質も今につながっている。

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ついつい「子供の頃」はと切り離して考えがちだが、実際には人生は常に連続性をもっていて、今日の行動や決断が明日の結果に繋がり、その繰り返しで年を重ねていく。だとすると「高齢者」というのも同様で、年齢で分けて「こういうことを望んでいる、感じている」と考えるのではなく、カメラ目線で走っていた子供が年を重ねただけなのだから、気持ちもその当時のままであるし、変化したと思われる気質も連続性の中で少し形を変えていったに過ぎない。

年齢を重ねると、なんらかの気質が極端に突出しているようにみえてしまうのは、生まれながらに持っている気質からいくつもの選択を繰り返し、それを環境や周囲が了承してくれているからこそ、その気質を維持出来ているだけなのかもしれない。

母:敦子物語 Vol.40

友にはそろばん、書道、水泳、ドッジボール、ソフトボールなど習い事をさせていた。子供自身もやりたいというのに、実際に習い始めると、書道教室などは勝手に休んでしまう。あまりに休むので、もう止める?と聞くと喜んであっさり止めてしまった。ところが、止めたくないのにさぼるのが、そろばんや水泳だった。後から分かったのだが、そろばんは普段のクラスはつまらないが、月に 1回ほどあるゲーム大会では商品も出たりして面白いので、そのために残っていたかったようだ。水泳に限っては、休んでいたことさえ気付かないように、冬でも外の水道で髪を濡らして帰ってきていた。

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夫とは子供を叱るのは一人が良いので、叱らないで欲しいという約束をしていたので、何か子供が問題を起こすと、叱るのは自分の役目だった。小学校を卒業するまでにある程度のしつけを終えておかないと!と思っていたのだが、下の子は叱っても案外響かないし、時には叱ろうと思っていると、走って逃げてしまい、姉の直に SOSを出して一緒に戻ってきたりする要領の良さもあった。

自分自身でも習い事をしていた。編み物教室で、機械編みを習って、夫や子供のセーターを作ったり、手編みも自己流には出来ていたが、細かい部分で手ほどきを受けたりもした。手芸も好きだったので、手芸店で様々な物品を購入し、組み合わせてバッグを作ったりもした(写真のバッグも手作り)

子供の頃から、細かい作業や、何かを作ることは好きだったので、こうした習い事や作業は苦にはならなかった。ただ、ある時、編み物教室のあってないようなしがらみを感じ、ある程度出来るようになってからではあったが、止めてしまった。この当時から、家族や仕事以外での複雑な人間関係はあまり関わりたくないと思っていたのかもしれない。

母:敦子物語 Vol.39

友を妊娠する前までは、体重も平均的で、特に食事も人より沢山食べるというほどではなかった。ところが妊娠中に子供が栄養を吸収し辛くなっているので、とにかく食べて子供に栄養がいくようにと指導されたため、食べたくなくてもとにかく頑張って食べるようにしていた。そこで体重もかなり増えてしまったが、そのお陰もあり子供は無事に3000g程度で産まれてきた。

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ただ、出産後も食べる癖がついてしまったこともあって、ついつい食べ過ぎてしまうようになった。それに伴い、出産後も体重は増えていく一方だった。好きなものも、魚から肉までとにかく色々とあり、自分で作る料理も美味しい上に、外食も好きという食べることが趣味のような感じであった。ただ、そのせいで、すき焼きを食べ過ぎで急性胃炎になり入院したことも数回あった。夫も子供たちも自分の作ったご飯を「美味しい美味しい」と言って食べてくれるので、足りないということが嫌で、常に多く作ってしまう。結局余らせるのももったいないので、最後は自分が全て食べるということも多くあった。

友も成長期にはよく食べていたので、うな丼を一人2杯ずつオーダーして食べ切ったり、ハンバーグを食べた後に汁物も食べたいねとラーメン屋に夕食のはしごをしたりと、二人なので更に勢いがついて食べてしまっていた。体重は跳ね上がったが、健康診断でもいつも問題はなかったし、歩いたり身体を動かすことも定期的に行っていたので、それほど体重のことを心配することもなく、常に食を大切にしていた。

子供には旬のものを教えたいという気持ちもあり、季節ごとの料理を作ったり、食材にもこだわって味覚を大切に育てたのであった。

母:敦子物語 Vol.38

職場で仲間も増えてきたことで、会社主催の旅行に子供を参加させることもあり、職場の同僚に友は可愛がってもらったり、一緒に遊んでもらったりもしていた。また、社内でハイキング部も設立し、仲間とあちこちに出かけるようにもなっていった。当時流行っていた、街中を歩きながらスタンプラリーを行い、途中途中で企業サンプル商品が配られたりするイベントなどにも参加した。

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イベントを企画したり、旅行の計画を立てるのは、会社のみならず家庭でも同様に行っていた。時刻表が好きで、年中最新の時刻表を眺めていたこともあり、次はこことここを乗り継いでみたい!と思ったり、松本清張の小説に出てきた列車乗り換えのトリックなどを実際に時刻表をみながら楽しんだりもしていたので、旅行の計画は楽しみながら行っていた。時には、夏の家族旅行の計画を大きな模造紙に書き、家の中に張り出したりもしていた。

職場でも、家庭でも常にリーダーとなり、細かく計画を立てて楽しく安全に旅行に連れていく!というのも長女の気質がそうさせたのか?元々好きだったことを出来る環境がようやくそろって張り切ってやれていたのか?どちらにせよ、好きなことと、一緒に楽しむ仲間や家族がいるということは自分の子供の頃には無かったことであった。

母:敦子物語 Vol.37

店を始めて5-6年ほどで、友も小学生ではありながらも結構しっかりして、親の後を追いかけてきたりもしなくなり、そろそろ会社勤めがしたいと思うようになってきた。店のお客さんは夏になるとボーナスの話しになったり、会社の同僚との交流の話しを聞いたりしていたので、その憧れと安定した生活がしたくなっていった。そこである日夫に、店を止めて会社勤めをしたいと伝えて、長らく住んでいた横浜から川崎に引っ越しをすることにした。引っ越してからは仕事探しが始まった。新聞の折り込み広告などの求人から、家の近くで働ける場所を探そう!といくつか友を連れて面接に行ったりした。働けそうな所は直ぐに受かったが、家からバスに乗らなければならない場所だった。そこで近所を歩いていると、ある会社のビルの前に社員募集の広告が出ていた。

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早速電話をして、面接となり合格したが既に40歳ということもあり、入社してからが大変苦労の連続だった。精密機器や機械の検査などを行うので、とても細かい作業もあったり、事務的な作業もあったりと慣れないことに必死になれようとした。ただ、仕事の苦労なら覚えれば済むのだが、この当時、40歳の女性で中途採用ということに対して車内の同僚や上司からの風当たりが強く、周囲から中々理解してもらえずに人間関係に馴染む方が大変だった。怒鳴られたり、教えてもらえなかったりと泣いて帰る日が何日も続いた。

苦労もあったが、コツコツ仕事をしていると、同僚も怒鳴ったりすることにも疲れてきたのか、社内で友人も増えてきた。その一人となる同僚の結婚式で、同僚が友に歌を歌って欲しいと依頼してくれた。家族や親戚だけならともかく、大勢の前で歌をうたうということは、自分にはとてもしないことだったのだが、友は小さい頃からカラオケ大会などにも参加していたので、夫側の血を引いたんだなと思うことがよくあった。そこで、同僚の結婚式で歌って!というと、喜んで歌ってくれた。

40歳からの再出発に、最初は戸惑ったが、少しずつ社内でのポジションも確立してきて、それからはとても楽しく仕事をする日々となるのであった。