母:敦子物語 Vol.54

会社のハイキング部を立ち上げ、最初は町歩きや、近場でのハイキングがメインだったのだが、少しずつ本格的な山にも挑戦していくようになった。軽い気持ちで始めたところ、行くたびに山の魅力に取り付かれるようになり、日帰りから一泊、慣れてくると縦走するために数日間連続で山に入るようにまでなっていった。徐々に山関連の本やアイテムも家の中に増えていき、運良く会社の同僚の中に、一緒に山登りをしてくれる人を見つけたことも相乗効果となって、続けられたのかもしれない。

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登りは、苦しくて歩くのもとても遅い。なので一緒に行く人には必ずと言っていいほど、置いていかれてしまう。ところが下りになると一変して、軽やかに走るように降りることができた。登りに力をかけすぎないので、膝にも負担がないからなのか?下りになって勢いよく下りていっても、膝を痛めたりすることもなく、快適に山の楽しさを満喫することができた。行きはゆっくり、帰りは早くというペースが分かると、自分にも出来るんだという自信にもつながり、元々負けず嫌いの性格も手伝って、自分との戦いでもある山登りは趣味と呼べるレベルの一つに成長していったのであった。100名山のみならず、地図を見ながら計画を立てて、様々な山を制覇していった。

母:敦子物語 Vol.53

反抗期のある無しに関わらず、子供も高校生くらいになると、その内部に充満するエネルギーを発散しなければならないと思っていた。直は自分から踊りが好きということを伝えてきたので、それに付き合ったが、友は特に何が好きということもないので、こちらから提案する必要があった。少し難しいこと、男性が好きそうなことが向いていると思い、バイクの免許を取ってみれば?と提案してみるとのってきた。教習所に通い始めて直ぐに小型バイクの免許を取得したので、中型バイクの免許も取得するようにすすめるとそれもあっさりと取得してしまった。

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向いていたとも言えるが、あまりにもあっさり取得してきたので、このまま本当にバイクに乗るようになってしまったら事故を起こしてしまうのでは?と心配になった。そこで免許を取るなら大型バイクまで取ったほうがいいというと、教習所では取れないので、直接運転免許試験場に行く必要があるという。そこで、自分で調べさせ、試験場と同様の練習場がある教習所に通わせることにした。住所通りの場所に行くと、そこは小さな事務所があるだけだったので、どういうことかと説明を受けると、そこは営業所であり、実際に教習を受けるのは浦和にある練習場とのことであった。すると、家から通うとすると少なくとも1時間半〜2時間近くかかってしまう。本人に聞くと、夏休みに通えばいいので、それでいいという。金額を聞くとかなりの高額で驚いたが、既に後には引けない。中型免許のままで事故にでもあったら自分が後悔するが、大型まで取得させて事故にあうなら納得も出来ると自分に言い聞かせ、教習所に通わせることになった。

高額ということもあり、最初は夫には内緒で開始した。毎日、毎日朝から夕方までかけて遠くまで教習に行くことも本人は楽しんでいた。かなり乗りこなせるようになったということで、ようやく夫に話をして、夫の休みの日に一緒に教習見学に行った。すると、大きなバイクを、小さい体で器用に乗りこなしている姿を夫とながめていると、夫も文句を言うということも出来なかったようで笑っていた。

高校2年生の夏という不安定な時期に、子供にとって夢中になるものを与えることが出来たのであった。

母:敦子物語 Vol.52

年齢が 10歳も離れていたこともあって、子供の頃から、直は友をよく可愛がっていたが、それは直が結婚してからも続いた。結婚後、九州に行ってしまったことで、中々会えなくなった姉妹だったが、友が高校入試の時に、高校に合格したら姉の所に一人で行きたいというので聞き入れた。当時は新幹線で 6時間程度かかるというのに、どうしても新幹線で行きたいという。

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そこで、新幹線チケットを買って、それ以外にも高校合格時に欲しいとリクエストのあったウォークマンやら時計やらカバンやらを持たせて九州旅行へ行かせた。直も友が来ることで、色々と準備をしていてくれたようで、二人で別府温泉へ行ったり、後から楽しかった思い出を聞きながら写真を見せてもらった。友が帰ってきた時に、行きに来て行った服とは違う雰囲気になっていたので驚いたが、それらも高校入学祝いに直が買ってくれたものだということだった。妹が自分だけでは選べないような服を着せてくれる優しい姉になってくれたこと、二人が離れても仲良くしてくれていることに安心した。

母:敦子物語 Vol.51

義父が亡くなった時には、まだ小学校低学年や幼稚園生で、葬儀の時に走り回っていた子供たちも、七回忌、十三回忌法要となる度にどんどん大きくなり、法事の手伝いまでするようになっていた。それでも、いとこ同士ということもあり、いくつになっても集まると賑やかで、普段会わないとは思えないほど仲良く遊んだり話したりしていた。

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それぞれの子供たちが、成長していく姿を見るのは、楽しいものがあった。また、中家に嫁いだ嫁同士で話をしたり、義理の妹たちと話をしたりする時間も次第になれていった。ただ、既にこの時に、直は結婚していたこともあるが、一緒に行事に参加する機会が少なかった。父親が直と友とでは違うことを、家族内では既に違和感なく過ごせていたが、やはり夫の親戚との行事という部分では多少気にする部分があったように思う。直は気にしないそぶりを見せてくれていたし、親戚との集まりがあっても極力参加してくれてはいたが、それでも全く気にしていないとは言えないとお互いに感じていたような雰囲気があった。一つには、いとこ同士の年齢が他はほぼ同じ幅だったが、直だけ年が離れていたということにも起因していたかもしれない。

母:敦子物語 Vol.50

両親から道徳的なことや、生きていく知恵などをじっくり教えてもらったことが殆どなかった。ただ、青春時代にたくさんの良い映画、良い本に出会うことで、自分なりの生き方や考え方を見つけていくことが出来た。当時は石原裕次郎の新作が出ると、大勢の人が映画館に並び、立ち見も出るのが当たり前なくらい、映画館は満杯になっていた。また、映画を観ながら観客が大声で笑ったり、かけ声をかけたりとても賑やかであった。

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映画から学んだことの多さを実感していたこともあり、子供にも沢山映画を観せた。友が小学生の頃でも、名画座のような所へ行ったり、理解が出来ても出来なくても連れていった。家でテレビを観るときは、サスペンスなどは基本的にみないという決まりにしていたが、映画であれば若干のサスペンスも観るようにしていた。当時はヒッチコックのサイコやバードなど少し早いかな?というものもみたり、市民ケーンなども全て字幕で観せるようにしていた。すると案外、映画をみた後の感想を聞いても理解しているようで、男女関係のもつれで犯罪に繋がるような内容に「深追いしちゃいけないねー」など言うので笑ってしまったこともあった。

多くを語るより、時として一本の映画から教えられることは大きいということを信じ、その後も子供とは映画を常に映画を見続けたのであった。

母:敦子物語 Vol.49

家族の恒例行事の一つに、夏休みは大磯ロングビーチに行くというものがあった。朝の渋滞もさることながら、帰りは気が遠くなるほどの渋滞になる。そこで、翌年からは、朝の5時前には出発するようにして、渋滞を避けた。ただ、朝と昼に食べるたべのおにぎりも大量に作る必要があったので、起床は朝の3時頃でそこから大量のおにぎりを作り始めるのであった。開園1-2時間前に到着しても、列の先頭というわけではなかったので、あの当時は本当に多くの人たちで賑わっている場所の一つだったのだと思う。

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おにぎりは移動中の車の中やプールサイドでいくつも消費されるが、やはりそれだけでは面白くないということもあって、露天のポテトやらスパゲッティーなども購入することになる。よく食べ、早朝から閉園ギリギリまで楽しむ子供の姿を見ながら、ガヤガヤとしたプールサイドで過ごす時間もまた良いものであった。

ある時、友がプールから併設のホテルを見上げて「ここに泊まりたい」と言うので、一年で最も高い時期でもあるのだが、ホテルに宿泊したことがあった。入園料からパラソル費用やら宿泊費も合わせるとかなり高額になってしまうこともあり、夕食はホテルのレストランではなく、持参したカップラーメンを食べよう!ということにした。ただ、その当時、部屋にポットはなく、お湯が必要な場合はルームサービスに電話しなければならない。仕方なく、ルームサービスに電話してお湯をもってきてもらうのだが、カップラーメン3個分に必要な湯量ではない。そこで、何度も連絡をすることになり、申し訳ないことをしてしまった。また、唯一残っていたおにぎりも一緒に食べよう!と思ったが、朝から炎天下に置いてあったということもあり、匂いを嗅いでみたが特に問題も無さそうである。そこで一口お食べた途端、蚕のように糸がフワ〜っと引いたので「あっ!腐っている!」と気付いた。

後から思えば笑い話だが、子供の要求にも応えつつ、家計もやりくりするというのは、子育て中特有の苦労なのかもしれない。

母:敦子物語 Vol.48

ビデオを購入したのも、周囲の人たちより一足早かったが、ビデオカメラを購入するのも早い方だったと思う。友が小学生の頃から放送委員会や、放送部に入っていたこともあって、カメラを欲しがったのも要因だが、夫も家族の記録が好きだったので、おおよそビデオ撮影は二人が実施してくれていた。

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この当時はビクターのビデオデッキを使っていたので、最初のビデオカメラはVHSがそのまま入るタイプのビデオカメラを購入した。録画して、直ぐに再生出来るという便利さもあったし、旅行が多い我が家にとっては写真だけではなく、動画で記録を残しておけるビデオカメラは大変良い思い出作りに役立った。家族のイベント、親戚同士の集まり、夏の大旅行、とにかく様々な場面で記録を残しておけたのは、その当時より後になって、その貴重さを感じることになっていくのであった。

母:敦子物語 Vol.47

夫は家族をとても大切にする人であるが、特に自分への信頼や守ろうという気持ちは強いものを感じた。高速道路で渋滞中に「トイレに行きたい」と一言いっただけで、それが夫にインプットされてしまい、なんとしてでもトイレに行かせなければ!という思いが強くなったのか、路肩を走る警察にまで渋滞の文句を言い始めるようなこともあった。

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また、明日は朝早く起きて出かけるんだと伝えたりすると、夫が出かけるわけでもないのに、自分より早く起きて、起こしてくれたりもする。というより、起こさなくてはという思いから、眠れなくなってしまうようであった。どこでも眠れる自分にとっては、眠れなくなってしまう夫をかわいそうだなと思いながらも有難い面が多かった。

ただ、優しくて何でも受け入れるというだけではなく、ある時はパチンコに、はまりかけた自分を途中まで黙認しつつも、ある日、静かに自分の後ろに立って「帰るぞ!」と言って、家へ連れ戻してくれたこともあった。奔放な自分を受け入れてくれる反面、行き過ぎる時は引き戻してくれる安心感があったので自由に出来ていたのだろう。

母:敦子物語 Vol.46

夫と友は同じ血液型ということもあってか?性格的に明るい所や歩き方まで似ていた。足の形まで似ていたので二人が歩く後ろ姿を見ると笑ってしまうほどだった。夫はとても明るく、低血圧で朝は気分が上がらない自分に対しても「おはよう!」と大きな声で挨拶してくれたり、冗談や面白いことを言っていつも笑わせてくれたりした。ただ、子供の頃から家族で「笑う」ということが殆どなかったし、冗談を言うという文化も持ちえていなかったため、大半の夫の冗談には気付かないことが多かった。

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すると、友が夫に「お母さんは気付いてないよ!」と言うので、その言葉を聞いて「え?何か言ったの?」と聞き返したりして冗談を台無しにしてしまうことも多かった。そんなことが続いても、夫はめげずに自分を笑わせようと努力してくれるのだった。また、夫は決して自分の誕生日を忘れたりしない。いつも祝いの言葉をかけてくれたり、気遣いが凄い。なのに、自分はこれまた子供の頃に誕生日を祝ってもらうという習慣もなかったからか、誕生日というものを意識出来ない。それは自分の誕生日もそうだが、子供の誕生日も夫の誕生日も同様であった。ある時は「昨日は俺の誕生日だったんだー」と日にちが過ぎてから悲しそうに教えてもらったりして「えー!だったらなんで昨日のうちに言ってくれないのー!」と逆ギレしたこともあった。

明るく、気遣いの人である夫の誕生日を忘れてしまうというのは何十年にもわたって続いたのであった。

母:敦子物語 Vol.45

ディズニーランドには出来て直ぐに行ってから、大好きになった。今までは子供のために遊園地に連れていくということはあっても、中々自分が楽しめるということはなかった。ジェットコースターにも特に乗らず、下で待っていたり、子供が喜ぶことが優先だった。海にしても、プールにしても、自分は泳がないのに連れて行くというのと、遊園地はあまり変わらなかった。ところが、ディズニーランドに行ってとても驚いた。

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とにかく、どんな乗り物に乗っても楽しめるし、ストーリーがどれにもある。ぬいぐるみを可愛いなどと思うことはそれまで無かったのだが、歩いているミッキーを見つけても楽しんでいる自分がいた。友が小学生の時にディズニーランドはオープンしたが、それからは家族だけではなく、親戚が来ても連れて行ったり、様々なアトラクションを楽しんだ。特にジャングルクルーズやカリブの海賊は好きで、義母にも挑戦してもらい、一緒に楽しめたのでそれも良い思い出となった。

子供が大きくなってからは、一人ででもパレードだけを見に行こう!とか、買い物だけしに行こう!とチョクチョク足を運んでディズニーランドを満喫した。何度行っても、一人で行っても毎回楽しめるという場所の貴重な一つである。