看護師社長物語 ~番外編 その9~

 

長年、神奈川に住んでいた両親であったが、現在は香川県に移住している。両親が住んでいるとはいえ、地元でもないし、遠いので香川県には訪問したこともなかったが、優しい姉が両親を気遣って、顔を見に行って欲しいと言ってきた。姉は私に将来的には、介護施設の経営もして欲しい、そこで私に雇ってもらって、ケアスタッフになり、両親も入居させて、自分が担当して面倒をみるというのが夢だという。そういう夢を他の誰からも聞いたことがないが、姉らしい考えに驚きはしないものの、どこまでも優しい人なんだなと思った。

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会社を設立したころに、姉に「友ちゃんのご飯を作ったり面倒みてあげられたらいいのに」と言われた時も、凄い人だなと思ったが、常に家族思いの性格は継続しているようである。そんな訳で、姉の言うことをきかないわけにもいかず両親を訪ねることとなった。事前に気にしていたのは、周囲の環境的なことであったが、それも実際にみて見ると心配にはおよばないほど、環境もよさそうで、何でも揃っていて便利に暮らしているようである。

子育て時代は、自分の性格を変えてまで、子供の将来を考えて行動していた母も、今では自由を満喫しているようであるし、それをサポートする父も相変わらず母に振り回されながらも、心配性を楽しんでいるようであった。少なくとも姉という存在なくして成し得なかった訪問である。

母:敦子物語 Vol.63

当時は携帯もなく、寮生活を始めた友は部屋に電話もなかったため、連絡を取るのも大変だった。こちらから寮に電話をかけると4階に住んでいる友は1階まで降りてきて電話を取る必要があり、友から寮の中にある公衆電話から電話を使ってかけてくるというのが通常であった。週末などは、車で寮まで行き、一緒に食事をして帰って来るということもあったのだが、それも極たまにという感じになっていってしまった。最初の一年間は、仕事をしながら自分で決めた看護予備校に通っていたこともあり、忙しくしていたようであった。

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そして翌年になって、仕事と寮はそのまま継続しながら、准看護師の養成学校に通うということにしたと本人から聞き、働きながら看護学校に通う以前の自分と同じ道を歩むのだと知った。自立という意味では、この時には既に生活も学校も自分で行うという意識も本人が強く持っていたので、自分が思っていたようには育てられた自負はあったものの、頼ってきたり、泣きついたりもしてこない子供をたくましく育ったものだなと思った。

時には自分の会社の同僚との飲み会や、カラオケに友も参加したりしていたので、少しずつ大人同士の付き合いにも参加出来るようになっていく姿もみるようになっていったのであった。

母:敦子物語 Vol.62

子供の成長は早いもので、友もあっという間に高校の卒業を迎えてしまった。病院の面接でコンピューターが出来ると答えたことで、事務職で就職することになったが、病院に隣接している寮に入居するということにもなったので、卒業式が終わって間なしに家を出ることになった。準備も至ってシンプルで、夫が自分の勤務している病院からもらってきた冷蔵庫と他はダンボール数個で終わってしまう程度であった。

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引っ越しも、自分たちで行ったのだが、寮は家からは高速に乗れば1時間程度の距離ではあったため、それほど時間もかからずに終了した。ただ、その寮はトイレ共同、キッチン共同、お風呂共同、4階に部屋があったがエレベーターも無しというところであったし、部屋も狭かったので「大丈夫かな」と心配になった。最後に当面の生活費を友に渡し、寮を出て帰る時には、子供がいよいよ自立するのだという気持ちではあったが、涙が出てきた。

生まれた時から、自分の好きなことをして、自立して生活出来る子供に育てると意識はしてきたものの、いざその瞬間が来ると寂しさも湧き上がるのだということをこの時に知ったのであった。

母:敦子物語 Vol.61

友は小さい頃からよく食べる子であったが、中学生、高校生にかけて自分と同じくらい食べるようになっていた。マクドナルドのフィレオフィッシュにはまると常に一人二つずつ購入。ケンタッキーを食べても通常のセットでは足りないので、単品で買い足す。ファミレスでハンバーグを食べてから、ワンタンスープを食べたに行ったり、うな丼 2杯のランチは当たり前と、普通の一人前では足りずに倍を食べるということをしながら、二人で良く食べ歩いた。テレビで放送されたラーメン屋に翌日に行ってみたり、映画を見た後でも、絵画を見に行った後でも常に食べ歩きはかかさず、二人の好きなことを一緒に楽しんだ。

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そんな生活も、友の高校卒業とともに終わりを迎えることになる。結局、高校卒業前に看護学校には合格しなかったので、約束通り家を出るためには、自衛隊に行くか、働きながら一人暮らしをするしかない。本人もそれを真剣に受け止めていたようで、受験した看護学校で病院の求人に応募し、すぐさま就職先と寮生活をすることを自分で決めてきた。そもそも、受験したいという看護学校も、聞けば一番難しい看護大学と言われている所や、倍率の高い所ばかり で、受験する前から「それは無理でしょう。。。」と思っていたのだが、本人が受けたいというものを止めることもできず、挑戦はさせたので案の定という感じではあった。

看護大学に合格したら、大型バイクを買って、それで通う!と言っていたのだが、本人も自分も描いていた未来は結局叶わなかった。それでも、自分で働き、寮生活をしながら、翌年の看護学校を受験するための浪人生活へ入るというので、その決断を尊重することにしたのであった。

母:敦子物語 Vol.60

そもそも会社勤めをしようと思ったのは、それまでの商売に対する不安定さを解消し、将来的に安定して生きていきたいと思ったからであった。よって、既に関西では流行していたカラオケ店を夫が関東でオープンしたいと言った時も反対した。人前で歌をうたうなんて恥ずかしくて関東の人はしない!と言い張った数年後、自分も夫の影響でマイクを持つようになっていたが、関東でもカラオケが大流行していくのであった。

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どんなことも話し合い、最終的には二人で決断したことが多いと思うが、やはり自分の意思を尊重してくれること基本的には知っていたように思う。夫は二人の関係を壊したり、約束から外れるようなことは決してしなかった。友達も多く、職場の野球チームで監督を務めたり、仲間と週一程度には麻雀をしたり、子供が入った地域のドッジボールチームのコーチをしたりと、アクティブに活動はしていたが、それも最優先にするのは自分との関係であると信頼できていた。時には、子供を叱っている所を、夫に止められたことに腹を立て、家を飛び出した自分に対し、夫は子供に向かって「お母さんが居なければ、お前と二人では暮らさない」と言ったらしい。子供よりも自分を優先にしてくれるということも実感していた。

お酒を飲んで帰宅しても、陽気になるだけで、迷惑をかけられるようなこともなかった。逆に自分はお酒を飲みすぎたり、食べ過ぎたりして、介抱してもらったことは多々あったのだが。。。

母:敦子物語 Vol.59

基本的に、家族旅行の場所も、食事にしても意思決定者は自分であったので、今年は此処へ行こう!と提案したり、出かけてからも此処で食べよう!と決めるのが通常だった。夫は食事に対する体内時計が正確なので、朝ごはんが少し多かったから昼ごはんは遅くするというようなことも殆どなく「ほら、昼飯だぞ、何を食べるんだ?」と聞いてくる。時にはあまりにも正確なその体内時計に「私はお腹空いてないからお父さんだけ食べれば」なんて言ったこともあるが、そういうことを言うと黙ってしまう。故に、基本的には何でも決めるようになった。

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レストランでも「で、何を食べるんだ?」と特に自己主張ががない夫なので、店のみならず食べるものもこちらで決める。マヨネーズはかけない方がいいとか、ドレッシングがいいとか、とにかく細かく指定しても、全てそれを聞き入れてくれる。夫の親戚たちをみると、亭主関白の気質はゼロではないはずなのだが、自分との関係で、夫の性格もどんどん変わっていったのだろう。本来の夫の性格はさておき、自分が常に全てを決めるというスタイルは我が家では定着していた。

ただ、ある時、露天商のお好み焼きを購入し、食事を作っている間に先に夫に食べ始めてもらっていると、夫が「なんか臭くないか?」と言ってくる。「今買ってきたばっかりなんだから臭いわけないでしょ」と答えると「そーか?でもなんか臭いなー」などと言いながらも半分以上食べてしまった。食事作りも終わり、席について自分もお好み焼きを食べると、一口で吐き出すほど、ガソリン臭い。「えーこれを食べたのー?」と夫に言うと「お前が臭くないっていうから」とのことで随分悪いことをしたと反省した。

食事では、他にも同じものを食べているのに、夫の方にばかり「はずれ」がいってしまうなんてことも多かった。アサリを食べても夫の方には砂が混じっていたりして、常に自分の負の部分を吸収してくれるような夫なのであった。

母:敦子物語 Vol.58

子供も手がかからなくなる時期に、会社も忙しくなってきた。電子部品の検査を行っていたが、当時は家電もよく売れる時代だったということもあり、中規模だった会社も上場したりと活気があった。朝は6時に起きて、朝食作りや朝できる家事を一通りこなし、仕事に出かけるのだが、残業も増えてきて帰宅が21時過ぎるということも多々あった。幸い、家と会社が近かったこともあり、通勤に時間をかけずに済んだのは幸いだった。

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遅くに家に帰ると、クタクタで夕食もそれから食べたりするのだが、その分、子供が洗濯物をたたんだり、お風呂掃除なども済ませておいてくれたりした。子供であっても車輪を家族全員で回す一員だと教えていたので、特に言わなくても家事をこなしてくれていた。遅くに帰宅しても仕事が終わっていないような時は、仕事を家に持ち帰り、家でも仕事をしたりすることもあったので、就寝時間が深夜になることもよくあった。ただ、友が中学生、高校生になっても家事をこなしてくれていたので、そういう面では共働きで体はきつい事もあったが助かってはいた。

時折、うちは貧乏だから、一生懸命働かないとねと友に言うのだが「これだけ好きなものを食べて、旅行にも行っているんだから貧乏じゃないよ」と子供目線では、親が共働きの生活を送っていても貧乏だと感じていないんだなと不思議に思った。ともかく、会社勤めをしてからは早朝から深夜まで家事も仕事にも追われる忙しい日々であった。

母:敦子物語 Vol.57

友が高校二年生も終わりが近づいた頃、いよいよ進路を真剣に考える時期になっていた。商業高校であったので、就職する同級生が殆どであったし、本人も特に将来のことを真剣に考えている様子はなかった。そこで、本人が興味を持てそうな本の広告を見せて話をしてみたり、性格的にありがとうと人に言われる仕事が向いているのではなど色々と試みてみた。

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中学生になる時にも、勉強はしなくてもいいから英語と中国語とコンピューターだけやったほうがいいとアドバイスしたが、コンピューター以外には結局、興味を示さなかったので進路のアドバイスは真剣に取り組んだ。天邪鬼の性格も考慮して、すすめた効果もあってか、助産師か保健師になるということで落ち着いた。それにはまず看護学校に行くための準備ということで、高校三年生になる時には看護系の予備校に通うということになった。一緒に説明会に行き予備校も決めて、あとは本人のやる気次第ということになったのであった。もし、看護学校に合格すれば、そのまま家から通うことが出来るが、看護学校に合格しなければ、高校卒業と同時に家を出るということを決めたのであった。

母:敦子物語 Vol.56

新しいことへの挑戦という意味では、スキーを始めたのも40代になってからだった。夫が家族全員のスキー用具を揃えて、皆んなでスキーに行こう!というところから開始したが、まさか自分がスキーを滑ることが出来るようになるとはその時には思ってもみなかった。富士山の麓にあるスキー場に日帰りで行くのだが、リフトに乗るのも怖いし、ゲレンデの下の方でスキー靴を履いて歩いてみたり、少しだけ足で登って滑ってみたりするだけで精一杯だった。

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夫と友は直ぐにリフトに乗って、どんどん上達していくのだが、その姿をみながら、ゲレンデの見える休憩所で殆どの時間を過ごしていた。ところが、何度も通ううちに、コツコツ自分のタイミングで練習していると少し、また少しと滑れるようになっていく。それが楽しくて、いつしかリフトにも挑戦するようになった。一度滑ってしまえば山と同様、下りの度胸はあるので、かなり勢いよく滑ることが出来るようなった。それからというもの、毎年、北海道へスキー旅行に家族で出かけるようになった。その当時は、スキー全盛期と言っていいほど冬の北海道は賑わっていて、飛行機会社と共同したスキーバスが札幌のあちこちでみかけられるほど勢いがあった。

北海道の雪質の良さもあり、スキーもどんどん上達して、旅行中の日中はずっとスキー、夜は札幌で様々なお店を見つけ食べ歩くというのが冬の楽しみとなっていったのであった。

母:敦子物語 Vol.55

友がバイクの免許を取得してから間もなく、自分も中型バイクの免許に挑戦しよう!と決意し、近所の教習所に通い始めることにした。人見知りはあったが、新しいことに挑戦したり、出来なかったことが出来るようになったりすることは好きだった。既に車の免許は持っていたので、学科試験は免除されていたこともあり、実技だけならそれほど大変ではないだろうとも思った。

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実際に、原付には乗っていたこともあるので、バイクの実技はそれほど難しいものではなかったが、教習所のシステムで何度か切ない思いをした。この教習所は最初にその時間に実技を受ける生徒のファイルをまとめて教官が持参する。教官は6-8人ほどいて、横一線にテーブルに並んで座る。最初の教官が生徒のファイルの中から、自分の生徒を選んで次の教官にファイルを回す。次の教官はまた自分の生徒のファイルを抜いて残ったファイルを隣の教官に回すというシステムだった。ただ、その教官は毎回決まっているわけではなく、どうやら、教官が都度自分が今日教えようと思っている生徒のファイルを抜くという雰囲気だった。よって、その前に立つ教習生は、自分のファイルが誰に抜き取られるかを見ることが出来る。自分のファイルは中々抜き取られず、時には一周回って最後まで誰も取らないので最初の教官が結局受け持つというような場面を何度も見なければならなかった。

後で思えば笑い話だが、その時は切ないし、いつになったら自分のファイルを取ってくれるのかと不安だしということで、チャレンジ精神も時には、切ないものになるということをこの時に実感したのであった。