看護師社長物語 ~番外編 その10~

無駄な体験などないと思う一つがニュージーランド留学だ。

本当の目的は、起業の勉強をしにMBAを取得出来る学校を受験する。その受験科目であった英語を受験レベルまで引き上げることであった。ところが帰国していざ受験となった時には試験科目から英語は外されていた。ここだけを捉えると、何とも無駄な時間だったようにも思うが、実際にはここで出逢った人、体験がその後の人生に大きく影響を与えることになった。

(ホームステイではなく、学生寮に住むということで得られた体験も多い)

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(緊張して臨んだ最初のテストでは、自己紹介もままならず、初級クラスへ振り分けられた)

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中学生の時に、父からは英語は全員同時スタートなのだから、頑張って勉強して、自分にも教えて欲しいと言われ、母からは、せめて英語と中国語とコンピューターだけやってくれれば生きていけると言われていたのに外国語なんて大嫌い!海外なんて行かないから必要ないと思って二人の言葉を聞いてはいたが実行はしなかった。日本大好き、海外は行かないを30歳まで豪語し、職場の同僚が「ハワイに行く」とか「ヨーロッパに」など言っても「食事は何を食べるんですか?」とか「綺麗なビーチなら沖縄で良い」「美味しい食事と緑なら北海道でいい」とまたまた聞く耳を持たなかった。

ところが、そんな考えを勝る目標が出来た途端「留学する!」と決めたので、先輩や同僚はとても驚いていた。え?会社を辞めるの?海外絶対に行かないんじゃなかったの?と今でも呆気にとられた同僚の顔は忘れられない。遊びに行くなら日本国内がいいが、必要な英語を短期間で取得するのだから、行きたいとか、行きたくないとかという感情はその際、どうでも良かった。

(週に3回は食料を購入していた寮の目の前にあるスーパータイピン)

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目標を持つことの大切さは自分では理解しているし、自分からすると突然のことではないのだが、周囲がその考えを理解し辛かったり、ついてくるのが難しいと考える気持ちも今では少しわかる。そういう意味では、随分と沢山の人を今までも驚かせて、心配させて「大丈夫なの?」と思わせてしまったものだ。

(ほぼ週1回ペースで食べていたバーガーキング)

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ともあれ、海外旅行の経験ゼロからいきなり一人で飛び出したことは、目標なしには成し得なかった。異文化にふれ、日本をより思うようになり、視野の狭さを痛感したあの体験が、今のスタッフと共に働くことに繋がっていることは間違いない。世界を意識し、他国の成功例や失敗例も含めて学び、独自の解決方法を編み出すということの一歩は、あの日、青い空のオークランドに降り立った時から始まったのだと思う。

看護師社長物語 Vol.190

早朝、ようやく研究計画書を書き上げ、ネットカフェを出た。外は眩しく書き上げた心地よさもあって、気分は爽快であった。印刷して読み返してみても、思いが込められていると確信できた。それ以外の受験に必要な書類を全て揃えて郵送した。テストは英語がなくなったので、筆記はなく、後は面接だけだった。

(どこの国でもラーメン屋を探す)

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面接試験では、緊張はしたが、得意の面接でもある。今までも筆記さければ、殆どの試験には通ってきた。とにかく今はビジネス知識はないが、会社を作りたいこと、やる気と根性だけはあることなどを積極的に伝えた。合格発表の日は、学校の掲示板に受験番号が張り出されるということだったので見に行った。見事合格!

これで会社を作るための第一歩を踏み出すことになった。とはいうものの、大学院は学費も高く、次の試練は費用の調達となった。まずは大学院主催の学費半額免除プログラムに申し込みを行う。次は通常の奨学金、それでも入学金などは準備しなければならないので、派遣看護師として、あちこちの職場を掛け持ちしつつ働いていた。

ある時、一つの派遣会社から、地方短期勤務で高収入のお知らせがあったので、それに申し込んだ。愛知県の病院で勤務するというもので、期間も決まっているし、入学前にはお金を作って帰ってこれる!と思い、出稼ぎ感覚で愛知県に出発したのであった。

Toward Immortalityについて

企業にはビジョン(将来目指すもの)があるように、個人としてのビジョンがToward Immortality(タワード イモータリティ)である。これは「不死を目指す」というもので、医療の行き着く先は死からの自由、すなわち不死だと思っている。そこに辿り着く道は様々あると思う。ただ、何をもって自分であると言えるのかとすれば「脳機能」に他ならないと考えている。脳の仕組みすら全容解明されていないのに、その脳を自己とするというのは少々乱暴かもしれないが、それでも身体機能の他の部分を損失しても、自己は継続していると思えるし、身体機能の一部を人工物と変更したとしても自己は継続していると信じられる。ただ、脳が他の人や人工物と入れ替わってもそれを自己と呼べるか?というとNOである。そこでレイカーツワイルというフューチャリストの提唱するSingurality(シンギュラリティ) を信じつつも、ただ待っているわけにもいかないので、自分でもその一部を担いたい。

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そもそも不死を目指すのは、大切な人々を失う瞬間の悲しみや絶望感を二度と味わいたくないということもあるし、自分も永遠に生き続けたいという気持ちもある。病院を受診する多くの患者さんは命を救って欲しいと病院にくる。殆どの人が死にたくないと思って病院に来るのに、出来るのは延命程度で、実際には不死を達成することは出来ていない。

自由を得るということは、選択肢が増えるということでもある。しかし、ここまでテクノロジーが進化した現代でさえ、人は死に対する選択肢を持ち合わせていない。世の中には、事故、病気、事件、紛争などによって望まない死を受け入れなくてはならないのが現実だ。

松下幸之助さんは「成功するのは、成功するまで諦めないこと」であると述べられ、かのナポレオンは「自分は達成するまで目標を諦めないからこそ、自分の辞書に不可能という文字はない」と語ったそうだ。人類が成し遂げていないことなので大きな目標ではあるが、同じ目標を持つ世界中の仲間とともに達成するまで諦めず進んでいきたい。

母:敦子物語 Vol.70

友は准看の学校と正看の学校もあっという間に卒業し、東京の病院に就職をした。学生の頃以上に忙しくなってしまったこと、病院では手術室勤務で、決まった休みが中々取れずにいたことなどもあって、殆ど会う機会がなくなった。時折電話で話をしても、夜勤明けであったり、休みでも待機中とのことで、呼び出されたら病院に行かなければならないと言う。それも仕事だと思いながらも、あまりの忙しさに心配をしていた。そんなある時、新聞の求人欄に看護師募集の記事があったので、読んでみると、銀行内の診療所業務とのことだった。これだったら昼間だけの仕事で、規則的なので体にも負担がないと思い、その記事を友に送った。

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送ってから数日経っても、なんの連絡もないので心配になって電話をしてみると、読んだけど申し込み期限も過ぎてしまったと言う。本人は忙しくても病院を辞める気もなさそうで、応募すらしていなかった。そこで「どうせ受からないだろうし、期日も過ぎているけど、一応書類だけでも送ってみたら?」と刺激してみると面倒くさそうにわかったという反応であった。そこから書類、面接、二次面接と進み、本人の意思とは裏腹にあっさり合格してしまった。最初は受かっても行く気がなさそうであったが、沢山の応募者の中から選ばれたとのに、断るというのも失礼なのでは?と考えたようで、最終的には病院を退職することになった。

本人は、病院の寮を出るので実家へ一旦戻ると言ってきたが、一度自活した以上は、今後も自活を続けるように!と伝え、自分で部屋を見つけて再び一人暮らしをしながら銀行へ通うことになったのであった。

母:敦子物語 Vol.69

自分の母親とは違い、義母はいつも子供や孫たちに囲まれていた。旅行に行っても、お祝いの席でも冗談を言って周囲を笑わせたり、歌を歌ったり、踊りを披露したりする気遣いをしてくれていた。CMの真似をして「100歳100歳」と自分が100歳まで生きるといって周囲を和ませてくれたこともあった。また3男3女を産んだ義母から、男の子供と女の子供には可愛さに違いがあること、男の子は特別であるということなども教えてもらった。自分には女の子しか産まれなかったので、全て自分の子なんだから、男の子も女の子も同じだと思っていたので、義母からの話は衝撃であった。

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義父が亡くなってからも、ずっと一人暮らしをしながら頑張ってきた義母ではあったが、とうとう体調を壊し、倒れてしまった。病院に入院し、一命はとりとめたものの、それからはどんどん弱ってしまい、さすがに一人暮らしの継続が厳しくなっていった。直ぐに人と打ち解ける性格だったので、病院や施設に入っても友達を作ったり、大切にされていたようではあったが、やはり自分でなんでもしてきた人が、自由を失うということの辛さを義母を通じて感じた。一時は義母と一緒に住むことまで考えた時期もあったのにと思うと、施設で迎えた最期を、義母はどう考えていたのだろうかと思ったのだった。

母:敦子物語 Vol.68

夫方の親戚とは、義母が元気なうちは年に 1-2回は神戸に行っていたので会っていた。それ以外にも義兄弟の子供の結婚式などにも呼んでもらい、その都度、顔を合わせるチャンスがあった。一方で、自分の母や妹弟たちには年数を重ねるごとに殆ど会うことがなくなっていった。ある時は、母が入院したというので、慌てて病院にかけつけ、取り急ぎ必要そうなものを購入して渡すと「こんなもの必要ない」と言われて返された。またその後も入院中だと思って、今度は着そうなパジャマや口紅など注意深く選んで持っていくと、看護師さんに「もう退院されましたよ」と言われて落ち込んだこともあった。それなのに、何故かあとから電話してきて「お前病院に行ったかい?」と自分を試すようなことを聞いてきて「行ったよ」と言うと笑っている。

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全く意味がわからず、自分では、想像がつかないような行動をする母に困りながらも、まあ昔から勝手な所があったから。。。と諦めて自分を納得させながら付き合い続けた。母が食べたいというものを作って待っていても、突然気が変わって来ない、新年になると毎年同じ下着を届けていたのに、ある年は急に「こんな下着いらないよ!」と言われて泣く泣く持ち帰ったこともあった。せめて子供の成長を見せようと友の成人式の日に着物姿を見せに訪問しても居なくなっている。そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ足が遠のくようになり、最後は妹に引き取られたと言うので、これ以上、会いに行くのはやめようと決めたのであった。

母:敦子物語 Vol.67

昔から、寺院は好きで、荘厳な気持ちになる場所の一つであった。近所にあった川崎大師もよく訪れたが、 7年に一度ご開帳のある長野の善光寺などイベントがあるタイミングで、様々な寺院巡りをしていた。善光寺は子供が小さい頃から、ご開帳の度に訪れた。最初はどこに泊まっていいかも分からないので、ギリギリの予約で空きがあった薄暗いホテルに泊まったり、様子がわかるようになってからは宿坊に泊まるようになったりと、少しずつ善光寺通になっていった。

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宿坊も、参道内にある善光寺と近い存在のところを選ぶと、早朝の行事に優先的に参加させてもらえたり、お数珠頂戴などでも良い位置で住職が通るのを待つことができたりした。最初は宿坊で精進料理というと、かなりあっさりと寂しい食事なのかと思っていたら、泊まった宿坊は、とても技の光る食事内容で、とても美味しかったので、そこからは数回同じ宿坊に宿泊することにした。

通常の参拝以外に、住職から戒名にも使えるという名前をいただくという行事があり参加した。すると自分が手にした名前に、夫の名前の一文字が含まれていたので大変驚いた。二文字のとても穏やかで良い名前だったが、誰にどんな名前が来るのかわからないのに、自分のことを知って渡されたかのような偶然に不思議な縁を感じたのであった。

母:敦子物語 Vol.66

旅行が好きで家族旅行以外にも数多くの旅行を続けていた。夫の友人夫婦と旅行したり、夫の職場の同僚家族と旅行をしたり、夫がコーチをしていた子供のドッジボールチームの監督やコーチ家族と旅行をするなど、夫側の知り合いとの旅行も多かった。自分側の知り合いと夫が一緒に旅行するということは殆どなかったが、夫の方がオープンな性格で、何でも自分と一緒にという性格だったからかもしれない。家族旅行以外にも、恒例になっていったこれらの旅行、また自分の職場の旅行などを合わせるとかなりの回数になった。

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山登りも開始し、山仲間も出来て夏はいくつもの山を縦走するということもしたが、冬に歩けなくなるのも寂しいので、東海道、中山道などの街道歩きも開始した。仕事もあるので、休日に歩ける所まで行き、次の休日は、前回歩いた最終地点まで電車や新幹線などで行き、続きの距離を歩くということをしていた。夫は山に登るのはそれほど好きではなかったので、街道歩きも最初は一人で行っていたが、何度目かには夫も誘って、一緒に街道歩きをした。街道を歩くと、最初の賑やかな場所を歩いている時はいいのだが、場所によっては食事場所、トイレ休憩場所なども探すのも大変になってくる。そんな中でも、助け合いながら歩き続けて、守ったり、守られたりしながらゴールしたのであった。

 

母:敦子物語 Vol.65

スキーを始めた頃からは想像もつかないくらい、スキーも上達して上級者コースでも滑れるようになっていった。この頃は、友がスキーからスノーボードに転向していたし、既に一人暮らしをしていたが、北海道の旅行は一緒に行っていた。札幌に宿泊し、早朝のスキーバスで様々なゲレンデに連れていってくれるので、パウダースノーを満喫して、夜になると再び札幌に帰ってくる。

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お気に入りの店で白子のおでんを「たち」と呼ぶことも教えてもらい、何回もたちをオーダーしたり、食事後もニューハーフの店に行き大人の遊びも楽しんで家族で行った。店では家族連れは珍しかったようで、色々と声をかけてくれてゲラゲラ笑わせてもらった。ある時は、心配性の夫が食事後にほろ酔いで雪まつりの会場を歩きながら「滑るからきをつけろよ!」と自分と子供に声を何度も一生懸命かけていた。確かに雪が氷になっている場所もあり、かなりツルツル滑って危険ではあったのだが、散々声をかけていた夫が一番最初にツルーンと足を滑らせて宙に浮いてからドサッと倒れた。頭を打ったようで一瞬気を失ってしまったので焦って声をかけたら気が付いた。

心配症で、周囲に気ばかり使いながら、最初にドジもするという優しい夫らしいエピソードである。

母:敦子物語 Vol.64

義母は友達も多く、とてもアクティブだったので、神戸に一人で住んでいても寂しいとは言うこともなかったが、少しずつ歳を重ねていくうちに、寂しさも募ってきているようであった。そこで、時には自分たちが神戸を訪問するだけではなく、義母を神奈川に呼んで、しばらくの間、一緒に過ごしたりすることもあった。神戸に訪問すると、一緒にいる時は元気で明るく、冗談を言うことも多いのだが、帰る時には必ず涙を流すようになってきた。

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そんなこともあり、神戸にコミュニティが出来上がっていることは知っていたが、たまに呼びよせるというのではなく、一緒に住むのはどうか?と提案してみた。すると、長年住んでいる神戸に居たいということで、断られてしまった。歳とともに一人で暮らしていくことへの不安も募っていっただろうが、それでも自分の作り上げた仲間や環境から離れるというのは難しいのかもしれないなと諦めた。

夫はとても母思いであったので、夫が母を一人にしておくという不安な思いを解消してあげたい気持ちもあった。ただ、やはり自分たちの生活があったため、神奈川を離れることも出来ず、離れ離れで暮らしながらも義母を気遣いながらの生活が続いたのであった。