母:敦子物語 Vol.70

友は准看の学校と正看の学校もあっという間に卒業し、東京の病院に就職をした。学生の頃以上に忙しくなってしまったこと、病院では手術室勤務で、決まった休みが中々取れずにいたことなどもあって、殆ど会う機会がなくなった。時折電話で話をしても、夜勤明けであったり、休みでも待機中とのことで、呼び出されたら病院に行かなければならないと言う。それも仕事だと思いながらも、あまりの忙しさに心配をしていた。そんなある時、新聞の求人欄に看護師募集の記事があったので、読んでみると、銀行内の診療所業務とのことだった。これだったら昼間だけの仕事で、規則的なので体にも負担がないと思い、その記事を友に送った。

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送ってから数日経っても、なんの連絡もないので心配になって電話をしてみると、読んだけど申し込み期限も過ぎてしまったと言う。本人は忙しくても病院を辞める気もなさそうで、応募すらしていなかった。そこで「どうせ受からないだろうし、期日も過ぎているけど、一応書類だけでも送ってみたら?」と刺激してみると面倒くさそうにわかったという反応であった。そこから書類、面接、二次面接と進み、本人の意思とは裏腹にあっさり合格してしまった。最初は受かっても行く気がなさそうであったが、沢山の応募者の中から選ばれたとのに、断るというのも失礼なのでは?と考えたようで、最終的には病院を退職することになった。

本人は、病院の寮を出るので実家へ一旦戻ると言ってきたが、一度自活した以上は、今後も自活を続けるように!と伝え、自分で部屋を見つけて再び一人暮らしをしながら銀行へ通うことになったのであった。

母:敦子物語 Vol.69

自分の母親とは違い、義母はいつも子供や孫たちに囲まれていた。旅行に行っても、お祝いの席でも冗談を言って周囲を笑わせたり、歌を歌ったり、踊りを披露したりする気遣いをしてくれていた。CMの真似をして「100歳100歳」と自分が100歳まで生きるといって周囲を和ませてくれたこともあった。また3男3女を産んだ義母から、男の子供と女の子供には可愛さに違いがあること、男の子は特別であるということなども教えてもらった。自分には女の子しか産まれなかったので、全て自分の子なんだから、男の子も女の子も同じだと思っていたので、義母からの話は衝撃であった。

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義父が亡くなってからも、ずっと一人暮らしをしながら頑張ってきた義母ではあったが、とうとう体調を壊し、倒れてしまった。病院に入院し、一命はとりとめたものの、それからはどんどん弱ってしまい、さすがに一人暮らしの継続が厳しくなっていった。直ぐに人と打ち解ける性格だったので、病院や施設に入っても友達を作ったり、大切にされていたようではあったが、やはり自分でなんでもしてきた人が、自由を失うということの辛さを義母を通じて感じた。一時は義母と一緒に住むことまで考えた時期もあったのにと思うと、施設で迎えた最期を、義母はどう考えていたのだろうかと思ったのだった。

母:敦子物語 Vol.68

夫方の親戚とは、義母が元気なうちは年に 1-2回は神戸に行っていたので会っていた。それ以外にも義兄弟の子供の結婚式などにも呼んでもらい、その都度、顔を合わせるチャンスがあった。一方で、自分の母や妹弟たちには年数を重ねるごとに殆ど会うことがなくなっていった。ある時は、母が入院したというので、慌てて病院にかけつけ、取り急ぎ必要そうなものを購入して渡すと「こんなもの必要ない」と言われて返された。またその後も入院中だと思って、今度は着そうなパジャマや口紅など注意深く選んで持っていくと、看護師さんに「もう退院されましたよ」と言われて落ち込んだこともあった。それなのに、何故かあとから電話してきて「お前病院に行ったかい?」と自分を試すようなことを聞いてきて「行ったよ」と言うと笑っている。

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全く意味がわからず、自分では、想像がつかないような行動をする母に困りながらも、まあ昔から勝手な所があったから。。。と諦めて自分を納得させながら付き合い続けた。母が食べたいというものを作って待っていても、突然気が変わって来ない、新年になると毎年同じ下着を届けていたのに、ある年は急に「こんな下着いらないよ!」と言われて泣く泣く持ち帰ったこともあった。せめて子供の成長を見せようと友の成人式の日に着物姿を見せに訪問しても居なくなっている。そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ足が遠のくようになり、最後は妹に引き取られたと言うので、これ以上、会いに行くのはやめようと決めたのであった。

母:敦子物語 Vol.67

昔から、寺院は好きで、荘厳な気持ちになる場所の一つであった。近所にあった川崎大師もよく訪れたが、 7年に一度ご開帳のある長野の善光寺などイベントがあるタイミングで、様々な寺院巡りをしていた。善光寺は子供が小さい頃から、ご開帳の度に訪れた。最初はどこに泊まっていいかも分からないので、ギリギリの予約で空きがあった薄暗いホテルに泊まったり、様子がわかるようになってからは宿坊に泊まるようになったりと、少しずつ善光寺通になっていった。

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宿坊も、参道内にある善光寺と近い存在のところを選ぶと、早朝の行事に優先的に参加させてもらえたり、お数珠頂戴などでも良い位置で住職が通るのを待つことができたりした。最初は宿坊で精進料理というと、かなりあっさりと寂しい食事なのかと思っていたら、泊まった宿坊は、とても技の光る食事内容で、とても美味しかったので、そこからは数回同じ宿坊に宿泊することにした。

通常の参拝以外に、住職から戒名にも使えるという名前をいただくという行事があり参加した。すると自分が手にした名前に、夫の名前の一文字が含まれていたので大変驚いた。二文字のとても穏やかで良い名前だったが、誰にどんな名前が来るのかわからないのに、自分のことを知って渡されたかのような偶然に不思議な縁を感じたのであった。

母:敦子物語 Vol.66

旅行が好きで家族旅行以外にも数多くの旅行を続けていた。夫の友人夫婦と旅行したり、夫の職場の同僚家族と旅行をしたり、夫がコーチをしていた子供のドッジボールチームの監督やコーチ家族と旅行をするなど、夫側の知り合いとの旅行も多かった。自分側の知り合いと夫が一緒に旅行するということは殆どなかったが、夫の方がオープンな性格で、何でも自分と一緒にという性格だったからかもしれない。家族旅行以外にも、恒例になっていったこれらの旅行、また自分の職場の旅行などを合わせるとかなりの回数になった。

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山登りも開始し、山仲間も出来て夏はいくつもの山を縦走するということもしたが、冬に歩けなくなるのも寂しいので、東海道、中山道などの街道歩きも開始した。仕事もあるので、休日に歩ける所まで行き、次の休日は、前回歩いた最終地点まで電車や新幹線などで行き、続きの距離を歩くということをしていた。夫は山に登るのはそれほど好きではなかったので、街道歩きも最初は一人で行っていたが、何度目かには夫も誘って、一緒に街道歩きをした。街道を歩くと、最初の賑やかな場所を歩いている時はいいのだが、場所によっては食事場所、トイレ休憩場所なども探すのも大変になってくる。そんな中でも、助け合いながら歩き続けて、守ったり、守られたりしながらゴールしたのであった。

 

母:敦子物語 Vol.65

スキーを始めた頃からは想像もつかないくらい、スキーも上達して上級者コースでも滑れるようになっていった。この頃は、友がスキーからスノーボードに転向していたし、既に一人暮らしをしていたが、北海道の旅行は一緒に行っていた。札幌に宿泊し、早朝のスキーバスで様々なゲレンデに連れていってくれるので、パウダースノーを満喫して、夜になると再び札幌に帰ってくる。

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お気に入りの店で白子のおでんを「たち」と呼ぶことも教えてもらい、何回もたちをオーダーしたり、食事後もニューハーフの店に行き大人の遊びも楽しんで家族で行った。店では家族連れは珍しかったようで、色々と声をかけてくれてゲラゲラ笑わせてもらった。ある時は、心配性の夫が食事後にほろ酔いで雪まつりの会場を歩きながら「滑るからきをつけろよ!」と自分と子供に声を何度も一生懸命かけていた。確かに雪が氷になっている場所もあり、かなりツルツル滑って危険ではあったのだが、散々声をかけていた夫が一番最初にツルーンと足を滑らせて宙に浮いてからドサッと倒れた。頭を打ったようで一瞬気を失ってしまったので焦って声をかけたら気が付いた。

心配症で、周囲に気ばかり使いながら、最初にドジもするという優しい夫らしいエピソードである。

母:敦子物語 Vol.64

義母は友達も多く、とてもアクティブだったので、神戸に一人で住んでいても寂しいとは言うこともなかったが、少しずつ歳を重ねていくうちに、寂しさも募ってきているようであった。そこで、時には自分たちが神戸を訪問するだけではなく、義母を神奈川に呼んで、しばらくの間、一緒に過ごしたりすることもあった。神戸に訪問すると、一緒にいる時は元気で明るく、冗談を言うことも多いのだが、帰る時には必ず涙を流すようになってきた。

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そんなこともあり、神戸にコミュニティが出来上がっていることは知っていたが、たまに呼びよせるというのではなく、一緒に住むのはどうか?と提案してみた。すると、長年住んでいる神戸に居たいということで、断られてしまった。歳とともに一人で暮らしていくことへの不安も募っていっただろうが、それでも自分の作り上げた仲間や環境から離れるというのは難しいのかもしれないなと諦めた。

夫はとても母思いであったので、夫が母を一人にしておくという不安な思いを解消してあげたい気持ちもあった。ただ、やはり自分たちの生活があったため、神奈川を離れることも出来ず、離れ離れで暮らしながらも義母を気遣いながらの生活が続いたのであった。

母:敦子物語 Vol.63

当時は携帯もなく、寮生活を始めた友は部屋に電話もなかったため、連絡を取るのも大変だった。こちらから寮に電話をかけると4階に住んでいる友は1階まで降りてきて電話を取る必要があり、友から寮の中にある公衆電話から電話を使ってかけてくるというのが通常であった。週末などは、車で寮まで行き、一緒に食事をして帰って来るということもあったのだが、それも極たまにという感じになっていってしまった。最初の一年間は、仕事をしながら自分で決めた看護予備校に通っていたこともあり、忙しくしていたようであった。

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そして翌年になって、仕事と寮はそのまま継続しながら、准看護師の養成学校に通うということにしたと本人から聞き、働きながら看護学校に通う以前の自分と同じ道を歩むのだと知った。自立という意味では、この時には既に生活も学校も自分で行うという意識も本人が強く持っていたので、自分が思っていたようには育てられた自負はあったものの、頼ってきたり、泣きついたりもしてこない子供をたくましく育ったものだなと思った。

時には自分の会社の同僚との飲み会や、カラオケに友も参加したりしていたので、少しずつ大人同士の付き合いにも参加出来るようになっていく姿もみるようになっていったのであった。

母:敦子物語 Vol.62

子供の成長は早いもので、友もあっという間に高校の卒業を迎えてしまった。病院の面接でコンピューターが出来ると答えたことで、事務職で就職することになったが、病院に隣接している寮に入居するということにもなったので、卒業式が終わって間なしに家を出ることになった。準備も至ってシンプルで、夫が自分の勤務している病院からもらってきた冷蔵庫と他はダンボール数個で終わってしまう程度であった。

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引っ越しも、自分たちで行ったのだが、寮は家からは高速に乗れば1時間程度の距離ではあったため、それほど時間もかからずに終了した。ただ、その寮はトイレ共同、キッチン共同、お風呂共同、4階に部屋があったがエレベーターも無しというところであったし、部屋も狭かったので「大丈夫かな」と心配になった。最後に当面の生活費を友に渡し、寮を出て帰る時には、子供がいよいよ自立するのだという気持ちではあったが、涙が出てきた。

生まれた時から、自分の好きなことをして、自立して生活出来る子供に育てると意識はしてきたものの、いざその瞬間が来ると寂しさも湧き上がるのだということをこの時に知ったのであった。

母:敦子物語 Vol.61

友は小さい頃からよく食べる子であったが、中学生、高校生にかけて自分と同じくらい食べるようになっていた。マクドナルドのフィレオフィッシュにはまると常に一人二つずつ購入。ケンタッキーを食べても通常のセットでは足りないので、単品で買い足す。ファミレスでハンバーグを食べてから、ワンタンスープを食べたに行ったり、うな丼 2杯のランチは当たり前と、普通の一人前では足りずに倍を食べるということをしながら、二人で良く食べ歩いた。テレビで放送されたラーメン屋に翌日に行ってみたり、映画を見た後でも、絵画を見に行った後でも常に食べ歩きはかかさず、二人の好きなことを一緒に楽しんだ。

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そんな生活も、友の高校卒業とともに終わりを迎えることになる。結局、高校卒業前に看護学校には合格しなかったので、約束通り家を出るためには、自衛隊に行くか、働きながら一人暮らしをするしかない。本人もそれを真剣に受け止めていたようで、受験した看護学校で病院の求人に応募し、すぐさま就職先と寮生活をすることを自分で決めてきた。そもそも、受験したいという看護学校も、聞けば一番難しい看護大学と言われている所や、倍率の高い所ばかり で、受験する前から「それは無理でしょう。。。」と思っていたのだが、本人が受けたいというものを止めることもできず、挑戦はさせたので案の定という感じではあった。

看護大学に合格したら、大型バイクを買って、それで通う!と言っていたのだが、本人も自分も描いていた未来は結局叶わなかった。それでも、自分で働き、寮生活をしながら、翌年の看護学校を受験するための浪人生活へ入るというので、その決断を尊重することにしたのであった。