母:敦子物語 Vol.9

医院で住み込みの生活が長くなったせいか、久しぶりに実家に戻ることになっても「もう実家には居場所がないな」と感じるようになった。時折家族の顔を見に行く程度であれば良かったのだが、自分が実家で生活し続けていくことを誰も喜んでくれないのではないか?と思ったからだ。本当は家族と一緒に生活をしながら、外で働き続けていきたいと思ったが、早々に自活して、妹や弟達の衣類や学校で必要なものをお土産に持ってかえれるようにしなければならないのかもしれない。そうすることが母(祖母)の望みでもあるように感じた。

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そんなことを思っていた時に、一人の男性と知り合った。自分より一回りも年齢が違ったせいもあり、話していても大人で知識が豊富なように感じた。また、その当時では高かったラーメンを食べさせてくれたり、新しい世界を見せてくれる人との出会いに、この人と一緒にいれば家を出ることが出来る!と思った。そこで知り合って間も無く家を出て、この男性の実家で暮らすこととなった。男性の両親はとても穏やかで、突然やってきた自分に詮索することもなく、とても親切にしてくれた。いきなりこの家の娘になったように、朝から男性の母が食事を用意してくれ、それを食べて仕事に行き、また夜もその家族とともに夕食を食べるという不思議な生活を送るのだった。

ただ、知り合ったはずの男性は家に帰って来る日が少なく、このままこの家にお世話になっているだけでいいのかな?と思うようにもなった。

※母の子供の頃の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.8

看護学校では仕事の疲れで眠ってしまうことも多かった。妹と会って話をすると、未だに父(祖父)はたまにしか家に帰ってこないとか、母も疲れているということを聞いた。学校になんか行っている場合なのかな?と思ったり、家族のことも心配だが、かと言って自分が家に戻って何か出来るということもないのか?など、そんなジレンマと疲れの中で試験前でも中々勉強に身が入らない。

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思えば、なんで自分は母の言いつけ通りに家を出たのかな?と思うようにもなってきた。子供が5人も居れば、生活は大変で、父(祖父)の事業失敗から長年生活は回復しない。だから一人でも子供が外で働いていれば家族の助けになる。

だから、以前実家に帰った時に、母(祖母)は複雑な表情だったのかもしれないなと気付いた。久々の実家帰りなのに、笑顔で迎え入れてくれるという雰囲気ではなかったので、もしかすると母も自分の顔を見ると辛い気持ちがわいてきたのかもしれないと思った。

それでも、自分は口減しのために外で働いているんだなと思うと、しょうがないとわかりながら、何で私だけが。。。と悲しくなるのだった。

※母の子供の頃の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.7

医院の院長と奥さんは時々喧嘩をしていた。その度に喧嘩をしていた両親のことを思い出した。喧嘩の内容はそれぞれの両親に対する贈り物が平等ではないことなどが多かった。奥さんからすると、何故院長は自分の親には高額の品物を送って、何故奥さんの親には同等の物を送らないのか?そういった内容が聞こえてくるたびに、結婚しても、お互いに両親はいるわけで、片方にばかり不公平な対応をしたら喧嘩になるんだなと学んだ。

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また、診療の介助では、男性に騙されてしまった女性達のいきさつなど、詳細に聞いていたこともあり、男性に騙されるとはどういうことなのか?などについてもよく考えさせられた。恋愛のもつれ、人のマイナス感情などからくる憎しみなどを聞いているうちに、自分は男性に騙されたりしたくない!という感情もわきあがった。

ある日、看護学校の同級生が、友人の男性二人とバイクでツーリングに行こう!と誘ってくれた。すでに男性に対して警戒心が強くなっていたこともあり「大丈夫かな?何かあったら走って逃げよう!」という気持ちが先行し、会話もあまり耳に入ってこず、中々楽しい気持ちになれず、結局最後まで気楽に話すことすら出来なかった。

ただ、後から振り返れば、トイレに行くタイミングまで気を使ってくれて、笑顔のたえない爽やかで良いお兄さん達だったなと思う。

※母の子供の頃の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.6

休みをようやくもらって、楽しみにしていた実家に帰る日、院長の奥さんからお土産を持たせてもらった。産婦人科医院は、贈答品が多く、家の中に贈答品が重ねて置いてあった。贈答品は、誰からもらったものなのか、内容はどのようなものなのかを確認してあり、その内容別に分類がきちんとされていた。その中から、奥さんが選んで実家に帰るんだからこれを持っていきなさいといってくれたものだった。

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少しでも家族の足しになるようにと思い、お土産を必死にかかえて、家族のもとに急いで帰った。ところが、久しぶりに会うにも関わらず、思っていたより、母(祖母)は喜んでくれているようには見えない。むしろ何で帰ってきたの?と言わんばかりの表情にも見えた。自分としては、ただ笑顔で「おかえりー!よく帰ってきたねー!頑張ったねー!」と言う言葉を望んでいただけなのだが。

あっという間に、また医院へ戻る時間になった。弟達は泣いておいかけてくれたので、少し気持ちが救われたが、何だか晴れない母(祖母)の顔が気になりながら実家を後にした。

医院に帰ると再び山ほどの仕事が待ち受けていた。時には院長の手伝いで、診察室周辺の雑務も行うので、診療にくる患者さんの良い話も悲しい話も全て聞こえてくる。喜びの妊娠や出産にまつわる話は良いのだが、そういう内容ばかりではない。

15歳-17歳頃の多感な時期に働く場所として産婦人科医院というのは、あまりに切ない内容のことも多く、何故、母が娘に、ここで働けと言ったのか?こんな思いをする自分を理解してくれているのかな?と再び母のことを思うのだった。

※母の幼少期の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.5

中学を卒業すると、母(祖母)から近所の産婦人科医院で、看護学校に通いながら住み込みの仕事をするように言いつけられた。いくら家事や妹弟の世話は大変だと言っても、家を出て生活するというのは、寂しいものであった。妹も自分に代わり、弟をおんぶしながら近所の商店で手伝いをしていたが、それでも、家に家族と一緒にいられることが羨ましかった。

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医院では、学校に行く前に、掃除や朝食の支度、学校から帰ってきたら医院の手伝い、夕食の支度など早朝から夜までやることは山積みだった。院長の奥さんから、掃除の仕方から食事の支度の細部に至るまで指示があり、かなり細かい内容であったので、夜になると疲れてヘトヘトだった。

お米は茶碗一杯のみ。食べ終わった茶碗に白湯を入れて箸で綺麗に茶碗をこすり、最期に白湯を飲み干すという食べ方も院長夫婦の作法だったので、それに習った。

また食べ盛りの時期であったのだが、決められた量しか食べられない雰囲気があり、空腹を我慢することも多かった。

早く休みにならないかな。早く家に帰りたいな。と思いながら眠りについた。

※母の幼少期の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.4

学校から帰ると、おやつ用に母(祖母)が仕事に行く前に、サツマイモを蒸しておいてくれることがあった。妹や弟とそのサツマイモを食べて空腹を満たした。学校が終われば直ぐに家に帰り、家事や妹弟の世話を続けていた。小学校高学年になっても友達と遊びに出掛ける時間はなかったので、同級生と遊んだり、語り合ったという思い出はない。

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弟をおんぶして買い物に行ったり、あやしたりする姿を同級生に見られて、からかわれたりすることもしばしばあった。時には、幼い弟がいじめられたりすると、いじめっ子を追いかけて弟を守ったりもした。貧しさからいじめられたり、からかわれたりするのではないかと思うと、悲しくて泣きたい気持ちになったが、人前では持ち前の負けん気で乗り切った。

まだ自分も小学生で誰かに甘えたり、頼りたい時期であったが、そんなことは許されなかった。妹や弟には頼られ、母(祖母)からは長女なんだからと言われ、自分の境遇を理解してくれる人など周囲にはいなかった。

ようやく、遠方で何日も仕事をしてきた父(祖父)が戻ってきて、母(祖母)も夜勤がないということで家族全員が揃って夕食が食べられる!と喜んでいる日に限って、両親が段々と険悪な雰囲気になってくる。食事が始まったと思ったら両親の喧嘩が始まるのだ。

喧嘩になると父(祖父)は星一徹ばりにちゃぶ台をひっくり返してしまい、せっかくの食事が無残な姿へ変化する。こんなことを繰り返しているうちに、少しずつ両親が揃っても嬉しいと思う気持ちが薄くなっていった。子供が楽しみにしているのに、なぜ食事を台無しにしてしまうの?なんで今喧嘩するの?母(祖母)はなんでせっかく帰ってきている父(祖父)にそんな冷たい言葉をかけるの?

色々な疑問を抱えながら、ひっくり返ってしまった食事を泣く泣く拾い集め、いつか自分が大人になったら、穏やかに、安心して食事が出来る家庭が欲しいと願った。

 

※母の幼少期の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。右端が母。

母:敦子物語 Vol.3

苦しい生活は長く続いた。

祖父は事業失敗後、大工の仕事を探し、遠方でも仕事があれば行ってしまうので、何日も家をあけることが続くようになった。家は祖母と子供たちで生活する時間が多かったが、祖母も看護婦だったため、朝早くから、夜勤で家を空けることもしばしばだった。

よって、家事だけではなく、妹弟の世話もしながら小学校に通った。家で勉強をする暇など全く無く、近所の人から、内職の仕事を紹介してもらい、家事や世話の合間をみては仕事もしていた。それもこれも、少しでも頑張っている両親を助けたいという気持ちと、苦しい生活を少しでも楽にして、明るい家族に戻れるようにと願っていたからだ。泣き言も言わず子供ながら必死に頑張った。

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それでも、生活は一向に回復せず、祖父母は顔を突き合わせれば喧嘩ばかりするようになり、いつしか子供たちだけで食事をすることも多くなっていった。

当時は給食がなく、お弁当を持っていかなくてはならなかったが、祖母がお弁当を作ってくれるといっても、それを教室で堂々と開けて食べることが出来なかった。何故なら、弁当はごはんに鰹節をかけただけであったり、ごはんに納豆が直接のっているだけだったりしたからだ。

お昼の時間がとても苦痛で、誰にも見られないように新聞で壁を作って、その中でささっと弁当を隠すようにして食べるのが習慣になった。早食いになったのは、この時のせいかもしれない。

ある日、同級生の男の子が、壁にしていた新聞を「バッ!」っと取り上げ、思わず驚いてその子の顔を見上げると「食いな」っと言って卵焼きを一つ弁当に入れてくれた。きっと彼は誰にも見られないように食べていたのは、お弁当の中身が貧相だということに気付いていたのかと思うと、卵焼きをくれた嬉しさよりも、恥ずかしい気持ちの方が先立って「ありがとう」とうまく言えなかった。

※母の幼少期の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.2

母の名前は敦子(あつこ)昭和17年8月生まれ。

戦時中、祖父母が中国に渡っている間、敦煌で出生したので名前に「敦」の字が入っている。

祖父は警察官だった。若かりし日の祖父は、スラッと長身で格好もよく見栄えのする人であった。白い制服で馬に乗る姿はとても凛々しく、日本に戻ってからも、祖父母は二人で苦難を乗り越えたこともあってか、夫婦仲もとても良く会話もある明るい家庭だった。祖父は母のことを「あつんべえ!」と呼び、お互い似た性格だったことも嬉しかったのか、とても可愛がって育てた。

その後、妹が出来、弟二人も生まれ、いつの間にか5人兄妹の長女になっていた。

 

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ある日、祖父は警察官を辞めて、自ら事業を行った。創業当初から事業が順調だったこともあり、生活はより豊かになっていった。小学校低学年くらいまでは、靴は靴屋で足型を取り、あつらえて作ったり、食事もいつも満足がいくまで食べることが出来た。家の手伝いも「お前は何もしなくていいんだよ」と言われ、家事は全て祖母が行っており、食器洗いや洗濯など、何も自分ではしたことがなかった。

家庭が穏やかで明らかに他の子供たちより恵まれた生活を送っていたが、その時は、それが日常だったので「恵まれていた」と気付いたのは、それから数年後であった。

生活が一変したのは、祖父の事業が失敗し、廃業に追い込まれてからである。突然のことに戸惑う余裕もなく、生苦はみるみる苦しくなった。大きな家に住んでいたのに、その土地を離れて小さな家に引越しもすることになり、祖母は看護婦の資格があったので仕事を開始した。

すると、小学生の母はいきなり長女として、まだ幼い妹、弟の面倒を見ること、家事をすることなどが役割となってしまった。しばらくは状況がつかめず、何故こんなことを自分がしなくてはいけないのか?何故こうなったのか?そんなことを祖母に聞いても「とにかくやるんだよ!」と怒鳴られるだけだった。

食器洗いの方法も、洗濯の方法も教えてもらったことすらなかったのに、いきなりやれ!と言われてもうまく出来るはずもなく、非常に戸惑いながら少しずつ自ら方法を身につけていくしかなかった。祖母も急な生活の変化に戸惑っていたとはいえ、失敗すれば怒鳴られ、幼心に非常に傷ついた。

寒空の夜、弟をおんぶしながら、冷たい川の水で食器やタオルを洗いながら「どうせしなければならないことなら、なんでもっと小さい時から洗濯や、食器洗いの方法を教えてくれなかったんだろう?」と思いながら涙した。

 

※母の幼少期の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.1

新連載。「母:敦子物語」

母には目標があった。

それは、私が「自立」し「好きなこと」をして生きていける人間に育てよう!ということだった。

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今や目標は達成されたが(自分で言うので間違いない)何故、母はそのような目標を持ったのか?

その過程において苦労はなんであったのか?(私を育てるのは大変だったはず)

諦めようと思ったことはなかったのか?(泣いてたね)

苦労や困難をどのようにして乗り越えたのか?

そんなことを考えているうちに、自らの性格や行動まで変えて努力し続けた母を凄い人だと思うようになった。もしかすると私が起業していなかったら、この「偉業」に気付けなかったかもしれない。

目標が長期的であったり、行動変容をしなければ達成しないものであればあるほど、根気よく、粘り強く、諦めず、モチベーションを保ち続けなければ目標達成は出来ない。母はそれを実現した。

しかし、母親の偉業なるものは、松下幸之助さんやスティーブ・ジョブズのような「偉業」とは違い、スポットライトを浴びることも、誰かに振り返られることもない。よって、母自身もがむしゃらに生きたその人生を、ゆっくり振り返ることもなく進んでしまったはずだ。

そこで、私の視点から、母の人生を振り返り、母に「こんなに凄いことをした人なんだよ」と改めて知ってもらおうと思い「母:敦子物語」を綴ることにした。

 

次回以降は、私が記憶している書けそうな内容(ハード過ぎない程度に)を中心に、母の幼少期から少しずつ書き綴っていく。

少しだけ紹介。

母の名前は敦子(あつこ)昭和17年8月生まれ。5人兄妹の長女。戦時中、両親(私の祖父母)が中国に渡っている間、敦煌で出生したので名前に「敦」の字が入っている。終戦後、命からがら日本に戻ってきたところから物語は始まります。

 

適度な運動: Light exercise

青空の下、適度な運動が行える最高の環境。

おおよそ20,000歩は歩けることも喜び。

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先日の大学での講義以降、今年感じる学生さんとの年代ギャップは今まで以上にズッシリ重い。たくさん歩いて少しは色んな重みを軽くしよう!