母:敦子物語 Vol.19

こうして、再び娘が二人になった。長女を病気で失い、離婚してからずっと次女を一人で育ててきたが、十分に手をかけてあげられなかったことで次女には寂しい思いをさせてしまった。今は再婚もし、優しい夫もいる、同じような子育てをしたら意味がない。そこで、長男を産めなかったことをいつまでも悔いていてもしかたがないので気持ちを切り替え、新しい子供は十二分に話を聞き、最初から一人の人間として自立した人間に育てようと決意した。

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ただ、自分は両親から愛情をかけて育ててもらったという記憶もなかったので、意地もあり絶対にあんな育て方はしたくなかった。だとしたら親を反面教師として、正反対に育てるということが、ある意味、子育ての方法だと思った。両親は子供の話を聞いたり、一人の人間として対応したりはしてくれなかった。故に、生まれたばかりの子供には、赤ん坊の頃から、沢山話しかけ、歌を聴かせ、本を読むなど手をかけた。ただ、自分だけではなく、夫もかなり過保護だったこともあり、冬に生まれた子が、風邪をひいたりしないように!と部屋にストーブをつけ、毛布でくるんで、洋服もしっかり着せて靴下まで履かせて寝かせていた。

ある時に気付くと、赤ん坊の身体中に赤い斑点ができている。慌てて病院に連れていくと「汗疹です」と言われ、何をしたらこの寒い冬にあせもなんて出来るんですか?と医者に言われた。家の状況を説明すると「子供なんて体温も高いんだから、それはやり過ぎですよ!」と注意され、薄着にして寝かせているとみるみるうちに赤い斑点の汗疹は消えていったのだった。

最初の子供でもないのに、自分も夫も娘も全員で手をかけていたせいもあり、かなり過保護な子育てが開始になったのであった。

母:敦子物語 Vol.18

お産婆さん曰く、元気よく産まれてはきたのだが、産まれる時に汚物も飲み込んでしまったと言われた。すると、産まれて直ぐにも関わらず、数日はミルクを飲ませることが出来ないということであった。女の子だったショックも束の間、今度は汚物誤飲問題に悩まされることになった。なんでそんなものを飲んで産まれたのか分からないが、とにかく産まれた時の丸々した状態から、みるみる干からびるように小さくなっていく子供を見つめて大丈夫なんだろうかと心配の数日が続いた。

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するとお産婆さんより今日からミルクを飲ませて大丈夫ですよ!という許可がようやく降りてホッとした。小さくはなってしまったが、まだ元気はありそうだ。
夫も娘も新しい命に喜んでくれてはくれたが、夫には男の子を産めなかったので、申し訳なかった。一方で娘は「女の子だから私が名前をつけていいんだよね!」とすっかり忘れていたことを、その言葉で思い出させてくれた。「なんていう名前にしたいの?」と娘に聞くと「友美にしたい」とのことであった。理由は自分が転校したりして、中々友達が出来なかったことなどもあり、友達に恵まれる美しい子になるようにという理由だった。まあ、理由もしっかりしているし、女の子の名前は一切考えていなかったので、それで決定!となったのであった。

母:敦子物語 Vol.17

三人での生活にも慣れてきた頃に、娘が兄弟が欲しい!と言い始めた。「弟か妹をデパートで買ってきて」という娘に戸惑いながらも、新たに子供を作って良いものか?と悩んだ。確かに夫は優しく娘のことも大切にしてくれていたし、新しく子供が出来たからと言って、連れ子の娘への態度を変えるとも思い難い。それでもせっかく安定した今の生活のバランスが崩れるのでは?という漠然とした不安があり、中々新しい子供を作ることが出来なかった。

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そうしている内に、夫からも子供が欲しいという話が出るようになった。両方からの要望に、思い切って挑戦してみようという気持ちになり、子供を産むことを決意した。ただ、夫は男の子を欲しがっているだろうなということも薄々感じていたので、子供を作るなら絶対に男の子!という決意をもとに、その当時流行った男女産み分け方の本をもとに食生活改善から行った。そうしているうちに妊娠したのだが、お腹にいるうちから、とにかく胎児が元気で、年中お腹を蹴飛ばしているし、食べたくなるのがドジョウで、夜になると夫に柳川鍋のお店に連れていってもらい、ドジョウばかりを食べた。

これだけ元気で、食べたくなるものもドジョウだったら、きっと元気の良い男の子に違いない!そう確信したことで、事前に準備する洋服も男の子用のもの、名前も武士と書いて「たけし」という名前にしよう!と決めて準備を万端に出産を待っていた。

そんな時、娘が「もし、女の子だったらどうするの?」というので「そんなわけは絶対にないよ!」というと「もし女の子だったら、私が名前をつけてもいい?」というので「いいよ!」と約束した。何故なら、絶対に女の子であるはずはないと思っていたからだった。

2月の雪が降る寒い日、いよいよ出産日になった。病院ではなく、産院で産んだため、今でいうところの助産師さん、その当時のお産婆さんが出産を手伝ってくれた。一生懸命に産みあげてぼんやりした意識の中で聞いた鳴き声がとても元気がよくて「あーこれで役目を果たせた!男の子でよかった」と思ったらお産婆さんに「可愛い女の子ですよ」と言われて、思わず「え?そんなはずありません」と言ったのだが「間違いなく女の子ですよ」と言われ、愕然とした。「あー家に帰れない、どうしたらいいんだろう」そんなことを思ったら意識が遠のいてしまったのであった。

母:敦子物語 Vol.16

夫の実家は神戸だったので、結婚の挨拶に行くという矢先、先に夫の両親が東京に出てきてくれた。両親に挨拶をする時も、再婚であること、子供がいることなどを非難されやしないかと不安もあったが、夫の父はそういうことには特に触れず、事情を察し笑顔で温かく受け入れてくれた。ただ、この当時の再婚というものは周囲にとっても恥ずかしいことであるという印象もあり、結婚式を実施するというのははばかられた。よって、親戚一同への挨拶を含めた食事会を神戸で開催するということになったのだが、夫側の兄弟姉妹は6人で、全員から受け入れられるか不安に思いながらの訪問となった。

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いよいよ神戸で夫の親戚一同への紹介をされる時、子供を連れて行ったら驚かれるだろうとも思ったが、既に夫の両親とは事前に会っていたので、既に話しは聞いているだろうと思っていた。ところが、実際に対面すると、兄弟姉妹達は驚いた様子で子供を見ている。ただ、驚いた表情で戸惑ってはいるものの、笑顔で迎えてくれた。その後に聞いてわかったのは、夫の父が事前に「詮索したり、非難したりするな」と親戚一同に言ってくれていたということを知った。こんな風に迎え入れてもらえたことに感謝した。

挨拶も無事終わり、いよいよ結婚生活がスタートした。前回の離婚で、とにかく家は明るく癒しの場にしたいと考えていたので、穏やかな家庭を築くことに勤しんだ。夫は関西人のノリなのかいつも自分を笑わせてくれ、家庭の中が明るい空気に包まれているのを感じた。娘もようやくホッとしたのか、学校でも落ち着いて勉強が出来るようになっていった。
ただ、時には夫との価値観の違いでぶつかり合うこともあった。夕食のおかずに関して夫は子供と全く同じであることを望まない。とんかつであれば、夫の方が子供より数が多かったり、サイズが明らかに違うものでないとおかしいという考えのようだったし、おかずは一品でも子供より多くして欲しいという要望があった。この部分はどうしても釈然としない思いがあった。
時には、それが自分の連れ子だから、そんなことを言うのか?と悪く考えたりもしてしまう。相手は初婚、自分は再婚という事実を変えることは出来ないということが、知らず知らずのうちに負い目に感じてしまっていたからこその発想だったのかもしれない。
※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.15

娘と二人での生活は数年続いた。そんなある日、一人の男性と知り合った。関西弁で明るく優しい人だった。子供がいることを知っても、驚いてはいたかもしれないが、表情に出すこともなく、話を聞いてくれた。ただ、年齢が一つではあるが下だったこともあり、自分のことなんて本気にはならないかなという気持ちもあった。

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ただ、以前から決めていたように、寂しいからと男性に頼るということはしたくなかったので、定期的に話をするようになってからも、甘えたりということはしないように努めていた。
いつしか、娘とも会うようになり、娘はその男性にとてもよく懐いていた。自分が家に居ない時は、ドアノブにみかんの沢山入った袋をかけておいてくれたり、時にはりんごだったり、優しい人柄に和まされることも多かった。少しずつ距離が縮まっているのを感じながらも、前回の失敗からも、簡単に結婚を決めたりもしたくなかったし、期待して裏切られてしまうことも怖かった。
そんな日々が続いていた時、娘の方がその男性に話を切り出した。「私のお父さんになって!」思わず驚いて娘を見たが、娘の表情はいたって真剣である。男性も困惑しているようでもあり、その場をどうおさめようかと慌てたが、その時から急速に現実的に男性との結婚を意識するようになった。結婚もせず、このままの関係を続けていれば娘を期待させてしまい可哀想な思いをさせる、会うことを続けるということは結婚するという形をきちんと取りたい。
男性も自分たちの生活があまりにも可哀想に思えて優しくしてくれていただけかもしれない。だとするならば、気持ちがないまま関係を続けていくことは良くない。ここで関係をはっきりさせなければ!娘の言葉をきっかけにそう決意した。
真剣に自分から二人の関係について話をすることはなかったので、緊張したが、男性の気持ちも本物であると確信出来、再婚することになったのであった。
※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.14

いざ、生活をスタートさせてみると、二人が食べていける分の仕事をするというのは容易ではなかった。結局、必死に日々を生きるという生活でゆとりを持って子供と接するようなことは出来なかった。仕事が短期で終わってしまうこともあるので、その都度、次の仕事がある場所へ行くためには転校もさせたり、不規則な時間で仕事をしなければならない時は、長期間親戚の家に預けたりもした。

そんな中で今日一日、学校でどんなことがあったのか?どんなことを悩んでいるのか?そんな簡単なことすら聞ける余裕がなかった。大人しくて我がままを言わないというよりは、母親を思うあまり、自我を抑えていたのかもしれない。

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そんなことに気付いたのは、子供の学校から呼び出しをされたことがきっかけだった。学校でも大人しく目立たないはずなので、問題など起こすはずはないのにどうしたんだろう?と思い学校へ行ってみると、先生から勉強に遅れが出てきていること、学習スピードが遅いことなどの指摘を受けた。日常生活には何も問題を感じたことがなかったので、まさか自分の娘が?と初めは耳を疑った。ただ、娘はどんな時でも母である自分に対して気を使っていたこと、学校で何があったかも知らなかったことなどを思えば、無理もないのかもしれないと思うようになった。

大切に思うからこそ、始めた二人の生活に少しずつ歪みが出てきたことを感じた。

いつかは再婚をするかもしれないという気持ちは持っていたが、大切な娘もいるので、軽々しく誰かと付き合ったり、寂しさを紛らわしたりすることだけは決してしたくなかった。そこで、娘に負担がかかっていたも理解はしたのだが、安易に再婚という道を選ぶことはせず、もう少し子供に目を配りながら二人で頑張ってみようと決意したのだった。

※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.13

娘のことばかりに気持ちが追われていたせいか、夫婦で会話をするという時間もあまりなく、気づけば夫は外泊がちになっていた。長女の病気を知った瞬間から全力で世話をしてきたが、旅立ってしまったことで気が滅入っていたときであっても、頼るというよりは自分で乗り越えるしかないという思いが強かったように思う。いつしか、二人の子供という意識から自分が産んだ我が子という気持ちが強くなっていたのかもしれない。

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少しずつ夫婦の距離が出来てきた矢先、夫は時に荒れて外で喧嘩をしたり、周囲へ迷惑をかけることも多々出てきた。元々大人しい人ではなかったが、より問題を起こすことが増えていった。意識が無くなるほど、お酒を飲み、大声を出して帰ってきたりするのだが、朝になると何一つ覚えていないという。一つの大きな悲しみを乗り越えるだけでも、疲労困憊していたのに、何故夫はそれを理解出来ないのだろうか。穏やかに暮らしたいと思っただけだのに、何故それが出来ないのだろうと情けなくなり、喧嘩に発展する日々が続いた。

そんなことを繰り返しているうちに、これでは実家の両親がしていたことと変わらないこと、次女を育てていくためにもこんな環境のままでいいはずがないこと、穏やかな生活とはどんどんかけ離れていることから、離婚することを決意し、次女を連れて家を出た。

この当時は、離婚した女性に対してほぼサポート体制などなく、親子二人の倹しい生活がスタートするのであった。

※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.12

程なくして、もう一人女の子が産まれた。次女は元気そうで安心したが、長女が成長していくにしたがって、より病気の進行が目に見えてわかるようになっており、日に日に不安が募っていたので、次女のことは幼児期から十二分に手をかけてあげることはできなかった。長女の看病に追われるようになると、次女は夫の両親に預けることもあったが、親を困らせたり、泣きやまないということもない大人しい子だった。それに甘えて時間のほとんどは長女の世話に費やした。

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医師から言われた3年という日が近づいてきたが、時には安心出来るような反応もあり、悪い時ばかりではなく波があったこともあり、もしかしたらもう少し頑張れるのではないかな?と思った矢先のクリスマス、長女は隣で静かに眠りながら旅立ってしまった。そこからは病気のことを告げられた時以上の喪失感、我が子を失うとはこれほどまでに無力感に襲われるのかというほど、悲しみが一気に襲ってきた。どうやってこの悲しみを乗り越えられるのか全く先が見えない暗闇の中で、ある日、ふと見上げると、そこに次女の顔があった。

あっ私にはもう一人子供がいたんだ。。。そう思ってしまうくらい、常に次女は大人しくわがままも言わず自分のそばでジッとしていた。言葉を発するのも他の子より遅かったかもしれないが、長女を失った後しばらく何も出来なくなってしまうほどの悲しみだったこともあり、次女の発達段階に気を向ける余裕もなかった。

放っておいた次女に申し訳ない気持ちと、この子を大切に育てていかなくてはという気持ちが交差し、久しぶりに次女を抱きしめて泣いた。

※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.11

結婚生活が始まり、ようやく自分で作り上げる家庭が持てたことが嬉しかった。直ぐに子供を授かった。出産時はあまりの痛みで苦痛に耐え切れず、こんな痛みが続くなんて嫌だーと思いながら出産した。ようやく生まれてホッとした子供は可愛い女の子だった。どんなに苦しい出産でも、生まれてしまうと痛みなんて忘れてしまう。夫の両親もとても喜び可愛がってくれたので、幸せであった。ところが、その喜びも束の間、生まれて数ヶ月たったが、ふと気づくと、子供ははっきりと目を開いているし、笑ったりもするのだが、目が自分と合わない。指を目の近くで揺らして追いかけさせようとしても反応していないことに気付いた。

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まさか?と思ったが慌てて病院に連れていくと、医師から先天性の疾患で生まれた時から視力がほぼないこと、また心臓に疾患があり、長く生きることは難しいことが告げられた。3歳くらいまでだという医師の言葉を聞いてから、どうやって家に帰ったかも覚えていないほどだった。そこからはあまりのショックで泣き続ける日々が続いた。まだ生まれて間もないのに我が子の余命が3年しかないなど、そんな残酷な話があるのか?なんで自分にそんなことがおこってしまうのか?泣いても泣いても悲しみは治らない。そんな日々が続いていたが、周囲も心配し声をかけ励ましてくれた。そこで、このままではいけないと少し気持ちを持ち直し、この子が生きている限り精一杯可愛がって育てようと決意をした。

そう決意してからは、今は生きているんだから、また奇跡が起きるかもしれない!兄弟も作っておこう!と、その子を中心ではありながら何とか状況を前向きにとらえながら子育てを続けたのであった。

※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。

母:敦子物語 Vol.10

この家での生活は居心地が良かったこともあり、かなり長い間、同様の生活を続けさせてもらった。ただ、実家を出て、別の家に居候しているという生活に変わりはなく、自分の居場所といえるものではないことにも気付きはじめていた。男性の実家に置いてもらえることより、自分の家庭を持ち、自分の家と言える場所が欲しかった。男性も自分のことを「家出をしてきた若い女性」くらいにしか思っていないのかもしれない。故に、自分と一緒に住むというのではなく、実家に気持ちが落ち着くまで住んでいればいいと思ってくれたのかもしれないなどと考えた。

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そこで、その男性が実家に戻った時に思い切って、心のうちを話してみた。最初はかなり驚いて半信半疑のような態度であったが、ようやく真剣な気持ちを理解してくれたのか、それであればと男性の両親にも結婚するという話しをしてくれた。これでようやく、自分の家を作っていけると思った。

男性の両親はとても喜び、祝福してくれたので、安心して新しい生活のスタートを切ることが出来た。自分の両親にもきちんと挨拶に行こうと準備をしてくれたので、暫く帰らなかった実家に、お土産を沢山かかえて一緒に実家にいったのであった。父(祖父)も母(祖母)も特に驚くという感じでもなく、案外淡々としていたのは予想出来る範囲のことであるように感じた。

※母の当時の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。