母:敦子物語 Vol.3

苦しい生活は長く続いた。

祖父は事業失敗後、大工の仕事を探し、遠方でも仕事があれば行ってしまうので、何日も家をあけることが続くようになった。家は祖母と子供たちで生活する時間が多かったが、祖母も看護婦だったため、朝早くから、夜勤で家を空けることもしばしばだった。

よって、家事だけではなく、妹弟の世話もしながら小学校に通った。家で勉強をする暇など全く無く、近所の人から、内職の仕事を紹介してもらい、家事や世話の合間をみては仕事もしていた。それもこれも、少しでも頑張っている両親を助けたいという気持ちと、苦しい生活を少しでも楽にして、明るい家族に戻れるようにと願っていたからだ。泣き言も言わず子供ながら必死に頑張った。

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それでも、生活は一向に回復せず、祖父母は顔を突き合わせれば喧嘩ばかりするようになり、いつしか子供たちだけで食事をすることも多くなっていった。

当時は給食がなく、お弁当を持っていかなくてはならなかったが、祖母がお弁当を作ってくれるといっても、それを教室で堂々と開けて食べることが出来なかった。何故なら、弁当はごはんに鰹節をかけただけであったり、ごはんに納豆が直接のっているだけだったりしたからだ。

お昼の時間がとても苦痛で、誰にも見られないように新聞で壁を作って、その中でささっと弁当を隠すようにして食べるのが習慣になった。早食いになったのは、この時のせいかもしれない。

ある日、同級生の男の子が、壁にしていた新聞を「バッ!」っと取り上げ、思わず驚いてその子の顔を見上げると「食いな」っと言って卵焼きを一つ弁当に入れてくれた。きっと彼は誰にも見られないように食べていたのは、お弁当の中身が貧相だということに気付いていたのかと思うと、卵焼きをくれた嬉しさよりも、恥ずかしい気持ちの方が先立って「ありがとう」とうまく言えなかった。

※母の幼少期の写真が手元になかったので、私の幼少期の写真を使用。